午後はいちどパドックを離れ、コプス内側からマシンの挙動を見ていたのだが、やがて風がどんどん冷たくなり、雲行きもあやしくなってきたので、またパドックに戻ることにした。何時ごろだったかは覚えていないが、朝の晴天が嘘のようにずいぶん寒くなっていた。雨になるかな、とふと思う。同時に、何か暖かいものが飲みたいとも思った。
一旦スイートに戻ろうとパドックを突っ切っていると、傍から声をかけられた。マクラーレンのガレージ前で一緒だった男性だった。
たとえばF3のパドックなんかだと、出入りする人も限られているので、一日そこにいるだけで顔見知りになってしまい、奇妙な親近感が生まれることがある。今回のF1テストもそれに似た雰囲気があり、私も何人か情報交換する相手に恵まれていたので、このときも気軽な気持ちで会話をはじめた。
ところが、そのうち彼がとんでもないことを言い出したのだ。
「エディ・アーバインって知ってる?」
「…そりゃもちろん知ってるけど」
「俺、あいつの友達」
「……は?」
「一緒に住んでるんだ」
「………え。それじゃもしかして"Ciro"さん?」
「あ、エディの本(※1)読んだんだ」
「…………。」
彼は、寒いから何か暖かいものを飲もう、と言って私をなんとジャガーのテントに案内した。そしてケータリング・テーブルからコーヒーとビスケットを堂々と失敬してきて、ぽんと私の目の前に置いた。座らされたテーブルのすぐ脇で、ボビー・レイホールが深刻そうな顔でスタッフと話をしていた。
「お昼時すぎちゃったから、こんなものしかないんだけど」
Ciroさんはケータリング・スタッフの女の子に、『日本の友達』というかなり端折った説明をし、私の存在権を確保したのだった。
彼は、さすがエディの友人というべきか(苦笑)、女の子のあしらいが巧かった。話題も豊富で、飽きさせない。そして私が根っからのF1ファンだと知ると、次のような提案をした。
「エディを見に行ってみないか?」
これは、願ったりな提案だった。チームのゲストパスを持っていないと、ピットには入れない。けれど私は、昨秋の印象(※2)がとても強く、どうしてももう一度ピットの中に入ってみたいと思っていたのだ。
警備員は、彼の顔を認めるやにこやかに挨拶をし、パス提示を要求すらしなかった。(そもそも彼はパスを下げてすらいなかった)
(※1)"Eddie Irvine: Life in the Fast
Lane"(1999, Ebury Press)
(※2)昨年秋のF1テスト見学では、無限ホンダのスタッフのご好意でピットの中やピットレーンを自由に歩かせていただいた。
ピットの中に一歩入ると、まるで空気が違っていた。
ジャガーは故障か事故か、午後は1台態勢でテストに望んでいた。入ってすぐのエリアはすっかり片づけられ、幾人かのゲストが肩を寄せ合って、カーナンバー18の作業を眺めていた。
さすがに昨年と違って写真は撮れない(カメラをバックから出すのも駄目だといわれた)。それでも、エディの仕事ぶりを真横1メートルにて観察できたのは、とてつもない収穫だった。
彼の声はITVでよく耳にしていたが、インタビューの時は少し高めの音域で早口で喋るのに対し、仕事中の声は低め。メット越しということもあり、何を言っているのかまでは拾えない。両手が雄弁に不満を物語っていたので、要するにセッティングが気に入らなくてマシン細部の調整を要請しているのだということは解ったが。
エンジニアは屈んで彼に顔をよせ、ふんふん相槌を打つ。たまに質問や合いの手を挟む。あたりまえだが無駄口はなし。それでも、昨年秋のジョーダンのピットに比べ、スタッフ人数が多いぶん会話も多かった。
興味津々で見ているうちに、調整を終えたエディはけたたましい音を立ててコースに出て行った。こうなるとしばらくは戻ってこないのは、昨年のテストで経験済み。チームのゲストたちも移動をはじめた。
こちらも他の場所へ移ろうと思いつつ、前回と違い、一旦ピットを出たら、二度と入れないだろうと少し迷う。しかし、いつ戻るともしれないマシンをじっとガレージの中で待つのは馬鹿らしい。おまけに、時計ははや4時を回っていた。Suzyさんが、4時を過ぎたらスイートを閉めると言っていたから、もう荷物を引き取りにいかなければならない。それに、4時といえば公式にはテスト終了時刻だ。
もういちどピットの中をぐるりと見回し、名残を惜しみつつ外に出た。
Ciroさんを探してお礼を言おうと思ったが、彼はどこへ行ったやら姿が見えない。仕方がない、一回スイートに帰ろう。またパドックを歩き回っていれば、会えることもあるかもしれない。
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