ひととおりパドックの状況を把握できたので、マクラーレン前まで引きかえした。
マクラーレンは、今回参加しているチームのなかでもトップ中のトップチームなのに、意外に人気が少なくガレージの入口のところまでフリーパス。メカニックが雑談を交わしながら出入りしている邪魔さえしなければ、覗きこんでも何も言われない(※1)。
もっとも、覗いてすぐに何かが見えるわけでもない。そのへんは抜かりなくパーティションで内部が区切られていて、マシンやコンピューターは絶対に覗けないように設計されている。入ってすぐはティーコーナー(各チームピット内にドリンクコーナーを設けている。主にドライバー・スタッフ用だが、マクラーレンはここにデッキチェアを並べてゲストが寛げる空間にしていた)。
しばらくアクションはなさそうなので、メカニックに話しかけてみる。目が合った拍子に「Hi」と一声かければきっかけは掴める(※2)。4月のテストはゲストも見学客も少ないので、東洋人はそれだけで目立つのだ。
「どこから来た」「何人だ」「誰と来た」、会話の糸口は放っといても質問というかたちで向こうからやってくる。「ロンドンに住んでる日本人でひとりで来た、F1のテスト見学は2回目。DCの大ファン(ということにしておく)」と答えれば、「日本かぁ。行ったことあるぞ、いいところだよな。遠いけど」「デイビッドなら今ちょうど走ってるけど、もう少ししたら昼食に出てくるから、待ってれば会えるよ」などと話が弾む。そろそろ頭髪が危うくなり始めたメカニックが、第2期ホンダの思い出を懐かしそうに語ってくれた。
このとき、同じようにガレージを覗いたりメカニックと話したりしていたラテン系の男性がいた。いちど目が合ったので、軽く挨拶をした。実はあとでこれがものをいうのだが、その話はまた後ほど。
(※1)決して当然の顔をして覗かないのがコツ。誰かと目が合ったら、即座に許可を求めましょう。余程のことがなければ多めに見てくれますが、あくまでこちらの態度次第。たったひとりの態度で、パドック全体の対応が硬化することもあり得ます。注意!
(※2)「こんにちは」と声をかけて、笑顔で返事があれば、たいてい会話はOKのサインです。ただし長話が嫌われるのはどこも一緒。あんまり専門的な質問も、のらりくらりと躱されるだけで歓迎はされません。場の雰囲気をよく読むことが大事です。
昼休みが近づくと、スタッフたちの動きは俄かに慌しさを増した。シルバーストーンのテストでは、昼食休憩は1時から2時と決まっている。ドライバーはその間に食事と簡単なスポンサー業務――主にサイン――を済ませる。メカニックたちは、午後のプログラムに向けて、セッティングの調整などを行わねばならない。つまりこの時間帯が、ファンがもっともドライバーを掴まえやすい。
とはいえドライバー側もそれは熟知していて、いろいろ煙に巻く方法を考えている。だからどうしても掴まえたい相手がいるなら、動かず騒がずじっと待つのが最上の手。
この日、私がわざわざ昼時を狙ってマクラーレンのガレージを訊ねたのは、実はどうしてもデイビッドに会いたかったからだった。
デイビッドには、99年の鈴鹿で遭遇したことがある。ロン・デニスとふたり歩いてくる姿を見かけて、スタイルのよさに惚れ惚れとした。それがきっかけだった。あとはITVを見、Autosportを読んでいれば、本気で惚れこむまでに時間は要さなかった。
英国メディアで、DCの悪口を目や耳にしたことはない。せいぜいが、『人が好すぎる』くらいか(その次に『いい人はタイトルが獲れない』と続くことが多いので、純粋な誉め言葉ではないだろう)。しかしそれも、決して批判的に書かれている印象はない。『お人好しで人当たりのいいスコットランドの紳士』を、ジャーナリストたちは好意をもって受け入れている。
マシンを降りたDCは、しばしティーコーナー周辺で、チームの招待客の記念撮影の求めに応じていた。それから単身パドックへ出てくる。ファンを制止するようなスタッフはいない。昼休みに入って急に増えた出待ちのファンが、わっ…と周りを囲んだ。
「David, Please!」
DCは群がるファンにも嫌な顔ひとつみせず、次々に目前につきだされるサイン帳をきちんと受け取っては、一枚一枚サインしていく。ファンのほうも彼がちゃんと対応してくれるのを知っているのか、おとなしく順番を待つ。場慣れしたかんじの年配の女性、子連れの若い父親、高校生くらいの女の子のグループ、大勢の少年たち。サイン帳も普通のノートから年季の入ったファイル、ファンシーな花柄など、さまざまだ。ここでは彼は紛れもないヒーローなのだ。
「有難う」「どういたしまして」の応酬はあたりまえで、さらに二言三言話しかける人もいる。
「前にきたのは去年でね・・・」
「うちの息子がファンなんですよ」
「応援してるから頑張ってね!」
DCはぴくりとも表情を変えないものの、いちいち相槌をうち、たまにそちらにも顔を向ける。私も思い切って呼びかけた。
「デイビッド、写真撮っていい?」
「いいよ!」
即答がかえるも、サインは続行。だからもう一言頼んでみる。
「ちょっとこっち向いてくれないかしら」
するとDC、サインする手は休めぬままで、くるりとこちらを振り向いた。とても嬉しかったが、彼は真顔のまま。よっしゃ、ここはもういっちょ押してみるか。
「ねぇ、笑って!」
・・・その一瞬の変化を、どう説明したらいいだろう。確かに、一瞬前までは完全な無表情だったのだ。それが、たちどころに満面の笑みに変わった。よく雑誌やニュースサイトの写真にある、あれだ。完璧な笑顔。
まるで、お面をぱっとつけたような早変わり(というかもはや豹変)ぶりに、私は絶句し、思いっきりシャッターチャンスを逃してしまった。そう、満面の笑みは3つ数えるほどの間しか続かず、すぐに彼はもとの無表情に戻ってしまったのだ。正直に言って、怖かった。(笑)
DCはだいぶ長いことファンたちにつきあって、やがて「お昼食べなくちゃだから」と去っていった。最後まで穏やかかつ丁寧な仕種だった。
|