Paris=Dakar Rally

     「冒険の扉を開くのは君だ。望むなら連れていこう。」
オフィシャルサイト: TOTAL DAKAR
毎年同アドレスで更新.
とにかくトップの写真が印象的.
仏語メインですが、英・独語も選べます.

               ダカールラリーの歴史

                    ダカールラリーのルール

                         ダカールラリーの裏方

                              ダカールラリーの逸話



      コンディションの過酷さと地域の情勢不安に参加者の命すら脅かされる「パリ=ダカール・ラリー」。
      それでも毎年、砂の海に挑戦していく人々は老若男女を問わず後を絶ちません。
      何が彼らを駆り立てるのか、そもそもどういうイベントなのか。
      「パリダカ」という名前は「F1」と同じくらい有名だと思いますが、案外そのルールや歴史は知られていないのではないでしょうか?

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・・『パリ=ダカ』の歴史・・

+冒険の扉は開かれた+

すべては、偶然の産物だった。1977年、アビジャン=ニース・ラリーに参戦していたティエリー・サビーヌというひとりのフランス人が、リビア砂漠で迷子になった。砂漠の過酷な環境に極限状態に追いこまれながらも、彼はどうにか母国帰還を果たす。そして、思った。
「あの無限の砂の海に、できるだけ多くの人々を案内したい   そしてあの激情を共有したい」

サビーヌは根っからの冒険好きで、モータースポーツ好きだった。すぐさま、ヨーロッパを起点に砂漠を縦断しセネガルの首都ダカールを終着点とするラリー開催を構想した。パリをスタートしてダカールへ向かう   そんなルートはこれまで誰も想像すらしたことがなく、これこそパイオニアだと彼は考えたのだ。
彼の信条は、「参加者には挑戦を、観戦する人々には夢を」だった。アフリカ大陸は当時、多くの人々にとって未だ夢でしか見られない地であり、様々な魅力を持っていたのである。

1978年12月26日、サビーヌの夢は実現する。170名の勇敢な挑戦者が極寒のパリ・トロカデロ広場から10,000キロの旅路へと出発した。ルートはアルジェリア、ニジェール、マリ、オートボルタを経てセネガルへと続いていた。
何もかもが初体験の世界で、競技上の成功を追い求めるとともに個々の能力の限界を超え、自己を発見する。パリ=ダカは自分の生きかたそのものをすら変える経験だった、と当時の参加者が後に語っている。

「冒険の扉を示そう。そこには、あらゆる困難が待ちうけているだろう。扉を開けるのは君だ。望むなら連れていこう」
「なぜ走るのか? そう、その自問自答こそ、ダカールまでの生きるエッセンスなのだ」
『パリ=ダカ』の精神として現在も語り継がれているこれらの言葉は、第一回大会の出発にあたって提唱者サビーヌが言ったものだそうだ。

ちなみに、現在ダカール・ラリーの主催者を勤めるユベール・オリオールも、第一回大会の参加者である。



+受け継がれる想い+

第二回大会開催は1980年。ヤマハ、フォルクスワーゲン、BMWといった大物チームが競って参戦した。以降、ラリーは毎年開催されている。
新たな冒険を提供するため、ラリーのルートは毎回設定しなおされた。参加者はうなぎのぼりに増加し、数え切れない挑戦者を砂漠へと送るようになる。イベントとして、パリ=ダカは世界的に有名になった。

提唱者サビーヌに悲劇が起こったのは、そんな矢先だった。第八回大会期間中、彼の乗るヘリコプターが砂嵐に巻きこまれたのだ。乗員は全員死亡。参加者は悲しみにくれた。
大会存亡の危機を救ったのは、サビーヌの父親、ジルベールだった。彼は息子の違灰を砂漠へとかえし、その遺志を継いで第九回大会を翌年開催する。その後、主催者はフヌイユ、オリオールといった大会のスーパースターの手に委ねられた。

"Entrez dans la Legende"
オフィシャル・ホームページのトップには、夕日に輝く無限の砂漠へとまっすぐに旅立っていくライダーたちの写真に添えて、こんな言葉が記されている。英語では、"Become Part of the Legend"と訳される。
望む者すべてに平等に参加の手を差し伸べるこのサイトには、はじめて挑戦する冒険者へ向けた主催者オリオールの丁寧なアドバイスまで書かれている。こんなところからも、提唱者サビーヌの精神とそれを守り続ける人々のつよい志が感じられる。

「すべての人に、夢を。」

ひとりの男の情熱は、今も脈々と息づいている。


*参照: TOTAL DAKAR COM

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・・『パリ=ダカ』のルール・・

日本では『パリ=ダカ』という名称がとにかく有名でとおりがいいが、現在の正式名称は『Le Dakar』。フランス語の"le"は英語の定冠詞"the"にあたるから、訳せばそのものずばり、『ダカール』ラリーだ。
始まって10年ほどはパリ→ダカール間でコースが設定されていたが、やがて毎年スタート・ゴール地点が変わるようになった。南アのケープタウンまでアフリカを縦断したこともあれば、1994年はパリをスタートしてダカールで折り返し、またパリに戻るというコース。逆にダカールをスタートしてニジェールでUターンしてダカールまで(1997年)ということもあれば、2003年はマルセイユをスタートして、チュニジア、リビアを通り、エジプトのシャルム・エル・シェイクがゴールというダカールと無縁なコースも登場した。
毎年1月1日にスタートし、全行程を走破するには2〜3週間かかる。毎日の走行距離は500キロからときに1000キロにも及び、そのうちの半分以上がタイムトライアル区間という厳しいレースである。
『プロが参加しても面白い、アマチュアのためのラリー』というのが最大の特徴で、カテゴリーやルールには、公平性を期するための様々な工夫がみられる。


+カテゴリー+

パリ=ダカは、プロのレーサーだけでなくアマチュアにも門戸を開いている。これは提唱者サビーヌの精神に基くものだ。理念的には、乗用車でもスポーツカーでも、サイドカーでもバギーやトラック、さらに市販されている車そのままでも、個人が組み立てた世界で1台だけの車でも参加が認められる。
競技カテゴリーは、モト(2輪)と、オート(4輪)およびカミオン(トラック)の2つ。各カテゴリーの中でグループ分けがあり、グループの下にクラスがある。

グループやクラスの基準となるのは参加車の改造の度合いだ。2輪も4輪も、おおきく市販車(無改造車)部門と改造車部門に分けられ、それぞれのグループは2輪は排気量別に、4輪はエンジンタイプ(ガソリンorディーゼル)と駆動系で細分化されている。(カミオン(トラック)はもともと独立したカテゴリーだったが、現在は4輪の中のグループ3という扱い)
TVや新聞で順位が報じられるのは、スーパープロダクションといわれる改造車部門の争いで、メーカー系のワークスチームが優勝めざして乗りこんでくるのはこのカテゴリーだ。一方、パリ=ダカを支えるプライベータ―たちが多く参戦するのは、プロダクションと呼ばれる市販車部門。砂漠を走るための特殊な改造は最低限に制限されているため、マシンを傷めないだけの手腕が要求される。


+レースの仕方+

2週間以上かけて砂漠を走りぬくという点で他のラリー競技と性質を異にするパリ=ダカだが、ラリー競技のひとつであることには変わりなく、レースはSSとリエゾン区間で構成される。スタートが時間差なのも通常のラリーと一緒だ。

SSというのは要するにタイムトライアルを行う競技区間のこと。各SS毎にターゲットタイムとタイムリミットが設定されている。おもしろいのは各車のタイム計測結果の記録方法で、1位の車両は「ターゲットタイム+○秒」という形で記録され、2位以下は「1位車両のタイム+○秒」と記される。つまり、ターゲットタイムはトップドライバーであっても決して上回れないタイムに設定されているのだ。一方のタイムリミットは、SSのゴールラインを通過しなければならない最終目標時間で、これをクリアできないとペナルティ・タイムが課せられてしまう。

リエゾン区間というのは、ルート上でSSとSSを繋ぐ部分。移動区間とも言われるが、ここにもターゲットタイムとタイムリミットがあり、ただ移動すればいいというものではない。次のSSに遅れて到着すれば1分の遅れにつき1分のペナルティが加算される。ちなみに、早く着きすぎてもペナルティがあり、こちらは1分早かっただけで15分のペナルティ。移動中は安全運転で、ということか。(WRCにはこれがないとみえて、リエゾン区間でのトップドライバーの速度制限違反が続出している<リエゾン区間は通常の交通法規に従わなくてはならない)

最終リザルトは、SSとリエゾン区間のタイムを足して数字の小さいほうから順位をつける。総合優勝は、カテゴリーに関係なくトップでダカールにゴールした選手に与えられるが、各グループ別優勝、クラス別優勝も設定されている。


+パリ=ダカならではの規定+

砂漠に道はないから、パリ=ダカでは通常のラリーのように目に見えるコースがあるわけではない。どうやって迷子にならずにすむかというと、前日に渡されるロードブックに通過すべきポイントが図や矢印で記されていて、これをコ・ドライバー(ナビゲーター)が読みあげてレースを展開する。通常のラリーにおけるペースノートのようなものだ。
各車がロードブックに記されたコースを逸脱していないかを監視するためルート上に設けられているのが、コントロールポイント。SSの途中にもあるし、リエゾン区間にもある。参加車両はここでカードにスタンプを貰わなければならず、1回貰い損ねると2〜5時間のペナルティ、何度も回数を重ねれば失格となる。
ちなみに、迷子にならないために活用されているものに、GPSがある。今でこそ携帯電話に内臓されたりして一般的になった装置だが、パリ=ダカでは1991年から公式に使用が許可されてきた。もっとも、あまりに性能があがってきたためかコストの問題か、97年からは主催者の指定した機器のみ使用可とされている。

もうひとつパリ=ダカならではのルールに、マラソンステージというものがある。通常、ラリーは一日走り終えると翌日のスタートまでの間に車両の修理が可能だ。しかし、大勢のサポートクルーを総動員できるワークスチームは相当酷い故障でも徹夜で仕上げてしまえるが、プライベーターはドライバー(或いはライダー)自身が修理をしなくてはならないこともあり、どうしても不利になる。
この格差をなんとかしようという試みがマラソンステージで、1泊2日やときに2泊3日のこのステージの間、サポートクルーは車に触れない決まりになっている。

ラリーの最後尾には、カミオン・バレーという収拾トラックが走って、途中車両のトラブルなどで動けなくなった競技者を収拾し、輸送する。このカミオン・バレーに収拾されることはリタイアを意味するので、参加者のなかには時間外完走(タイムリミットをオーバーした車両は公式リザルトに順位は載らないが完走扱いにはなる)を狙って単独でレースを追いかけたり、またはレースを外れて単独で現地の一般道路などを走り、競技車両を帰還させたりする裏技を披露するのもいるそうな。


+ご褒美+

世界一過酷といわれるレースは、ご褒美も太っ腹だ。完走した者すべてが勝者だ、とよく言われるが、その言葉どおり、完走者は全員ダカールの海岸でウィニングランを行った後市内をパレードする。それからホテルで現地の人々の歓迎のダンスを受け、表彰式を迎えるのだ。

最高の栄誉である総合優勝は、2輪と4輪のそれぞれに与えられる。気になる優勝賞金は、2003年実績で7000ユーロ(約90万円)。総合順位で1位から10位まで段階的に賞金があるほか、グループごとに1位から3位まで賞金がある。
しかしなによりも、アマチュアのラリーであるパリ=ダカには、アマチュア向けの賞品がたくさん設定されている。それはたとえば、エントリー費用の特別割引だとか、初参加賞だとか、アマチュア完走賞だとか、レース中の輸送アシスタントだとか、ユニークであると同時にアマチュアの参加を奨励する仕組みになっている。


*参照: PARIDAKA-INFO.COM, 新日本石油ラリーページ

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・・『パリ=ダカ』を支える人々・・
 
パリ=ダカの運営は、大会そのものの運営にはじまり、コース管理、食事、医療、結果集計など多岐にわたる。
オフィシャルサイトによれば、2004年のイベント運営に関与している人数は全体で1,500名。いくつか数字を拾えば、大会運営本部に加えてスチュワードが180名、警察官が300名、憲兵が65名、消防士160名、警備員75名、ボランティア80名、そして医療班。その他、メディア関係者なども加わるから、相当の人数が関わっていることになる。


+主催者の仕事+

パリ=ダカを現在運営しているのは、A.S.O.(アモリー・スポーツ・オーガニザシオン)という組織で、元スキープレイヤーのジャン=クロード・キリーをトップとし、傘下にレキップ(スポーツ新聞誌)、パリジャン(一般新聞)、ツール・ド・フランス(自転車レース)、パリ・マラソンなどを抱える一大グループだ。
2月頃から翌年のコースの検討をはじめ、3月には首脳陣がアフリカに入り、大まかなルートを設定する。その後、通過する国々との折衝を進め、同時に次回のラリー参加者へのプロモーションを始める。参加者受付は6月からはじめ、9月にはプレ・レギュレーションを発行。 10月に再び首脳陣がアフリカに赴いて、ロードブックを作りながら最終的なコースを設定するのだそうだ。その間、食料、燃料、スタッフや関係者、メディア関係者などの輸送機関の手配など、様々な準備も進めていく。
実際にレースが始まれば、オフィシャルスタッフ約100名、オフィシャルカー30台、飛行機17機、ヘリコプター8機(数字は2002年実績)が、競技参加者とともに毎日コースを移動していくという。


+医療班+

通常のサーキットレースと違って、砂漠の中を進むパリ=ダカでは、なんでもない事故や故障も命に関わる事態に発展しかねない。砂丘で車がひっくりかえって怪我をすることもあれば、故障車の修理待ちの間に体調を崩すことだってある。
こうした緊急時の対策として、競技参加者たちは全員、エマージェンシーキットの携行が義務付けられている。これはサバイバルキットとも呼ばれ、中身はライター、ストロボライト、トーチ、発煙筒3本、磁石コンパス、信号用ミラー、水5リットル、1人あたり1.5リットルの飲料水、毛布、シートベルトカッター、ホーン、救難信号ビーコンが入っている。ビーコンを発信すると、オフィシャルカーやヘリコプターで医療スタッフがすっ飛んできて救護にあたる仕組みだ。キャンプ地の中のメディカルテントで手当てすることもあれば、程度によっては近くの首都の病院、果てはフランスまで飛行機で運んでパリなどの病院に入院させたりすることもある。
2004年の医療班の構成は、野外医療施設(Field Hospital=野戦病院)・2ヶ所、メディカルセンター・1ヶ所、赤十字テント・6ヶ所、内科医14名、外科医2名、看護師11名、ヘリコプター4台。大会運営本部には砂上走行用バギーもあって、どこへでも駆けつけられる体勢を整えている。
医療と護送システムを担当しているのはフランスの会社で、競技参加者は全員、車検の時に強制保険に加入させられる。それによって砂漠の中での捜索費、負傷したときなどのフランスまでの送還に関わる輸送費が保障される。


+食事+

競技者・関係者たちはどんなものを食べているのか?
食事の配給は、主催者の手配したケータリングスタッフが行っている。朝はコーヒーや紅茶、カフェオレなどにフランスパンとビスケットといった、いわゆるコンチネンタル・ブレックファスト。ビバーク(キャンプ)内のテントで食べる夕飯は、オードブルやスープ、メインディッシュと野菜・パスタのつけ合わせ、デザート・チーズ、コーヒー、ワインやビールもついているフルコースの食事で、メニューは日替わりだそうだ。空をめがけてレザービームが一本照射され、それが食事班の準備ができた合図。夕食の時間はだいたい7時ごろだが、到着が遅れたチームに対しても夜半まで供給を続けてくれる。
リタイアがまだそれほど多くもないアフリカ前半ステージでは約2、000人分もの食事を準備しなければならず、各国ごとに現地の人々がボランティアで食糧班を手助けしているが、食べる側も長い行列を待つのが恒例。食糧確保は、今では大型飛行機で輸送しているが、かつては4台の大型トラックでチームを組み、シフト制で担当していたのだという。
さて、選手(及び航空機移動以外の全スタッフ)には昼食としてランチパックが毎日支給される。中身は小さなポークパテの缶詰と乾パン、ミックスベジタブルの缶詰などのほか、ビスケットやナッツ、ドライフルーツ、チーズ、スポーツドリンクの缶詰など、「ひたすら甘い」。もちろんハイカロリーは計算の上だが、大抵の人は食べられずに残す。というより、レース中の競技者はランチパックを食べる余裕などない、というのが現実のよう。そのため、4輪の競技者たちはランチパックを貰わないことも多いらしい。
ちなみに、2輪の選手は、給油の間にうまいこと昼食を済ませてしまうのだそうな。


*参照: TOTAL DAKAR COM, PARIDAKA-INFO.COM, 日産モータースポーツ

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