ヘレスの記憶 : 48周目の悪夢 - 2



伝統の重み。

ヘレスのスタンドを埋めたファンの多くはドイツ人だったが、熱狂的で経験豊富なイタリア人と、タイトル争いの趨勢を純粋に楽しんでいる英国人もまた、大勢詰め掛けていた。うち前者2ヶ国のファンの目的は、ミヒャエルが1979年以来の栄光をフェラーリにもたらす瞬間を確かめることに他ならなかった。

イタリア人は、フェラーリがタイトルを目指すことを"la sfida"(the challenge)と呼び、国中がこの偉大なる挑戦に熱狂していた。挑戦する事こそがこのスポーツにおいて何よりも大切なのだった。勝利へと邁進するドライバーの労苦に共感し同調し喜びを分かち合う。そして長い低迷に苦しんだチームは、ミヒャエルの加入以降、少しずつけれど着実に復調の兆しを見せていた。
この年はフェラーリ創立の50周年にあたり、5月にはローマでイタリア大統領も参列するほどの盛大な記念式典が執り行われている。跳ね馬が再び世界の頂点に君臨するのに、これほど相応しい時はまたとなかった。マラネロの広場には巨大なスクリーンが設えられ、数千人が決勝の模様を生放送で見られるようになっていた。明日になれば、ミヒャエルがイタリア全土を沸かせてくれるに違いないと、彼らは無邪気に信じた。

ミヒャエルに果てない期待を寄せていたのは、ファンだけではない。フェラーリのガレージでは、翌日の準備に余念がないメカニックたちが、やはり"la sfida"の重大さを噛み締めていた。それまで、彼らはたった2度の勝利(アレジのカナダとベルガーのホッケンハイム、ともに1995年)を除き、勝利の味というものと6シーズンにも渡って疎遠だった。ミヒャエルの加入が総てを変えたのだ。ロリー・バーンの空力デザインと、ロス・ブラウンの頭脳と、ミヒャエルのドライビングさえあれば、必ず勝てる。クルーたちは一見いつもどおりに振舞っていたが、内心では明日のチェッカーフラッグの瞬間を夢想しているに違いないと、アレンは見た。(アレン、p15-17)

新生フェラーリにおけるミヒャエルの意味――或いは価値――は、社長のルカ・ディ・モンテツェモロの態度にあきらかだった。彼はミヒャエルを中心に据えたチームを築き、ある程度の自由裁量を与えた。頻繁にテストを慰問し、ミヒャエルに会えば常に両手で握手をし、頬にキスを送った。記者たちが彼をおだてたり揶揄ったりすると、今フェラーリが擁しているのは世界一のドライバーなのだと強調した。「シューマッハーがいなかったら、グランプリはきっとタクシードライバー選手権に成り下がってしまうよ。我々にとって彼はこのうえなく素晴らしい授かりものなのだ。」(アレン、p34)

ただし、ミヒャエルはその才能と努力と献身によってティフォシたちの敬意を一身に集めてはいたものの、マリオ・アンドレッティやクレイ・レガッツォーニ、ジャン・アレジ、そして何よりジル・ヴィルヌーヴのように、フェラーリのヒーローとして愛されているわけではなかった、とアレンは注記する(アレン、p13)。彼らの誰一人としてタイトルをもたらしてはいないし、格別フェラーリで成功したというわけでもない。だからもしミヒャエルが明日タイトルを獲得すれば、ティフォシたちは有頂天になるに違いなかったが、それと彼を愛することとは別物なのだ、と。

果たしてミヒャエルは、その温度差に気づいていたのだろうか。

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米ニューズウィーク誌はヘレスに先立って表紙にミヒャエルを抜擢した。アメリカでF1人気は低い。しかも硬派で知られるこの雑誌の中核読者層ともなれば、尚更だ。それでも"Formula Ferrari - Why Michael Schumacher is on the edge of greatness"と題した特集は6ページにわたり、クリントン大統領の南米訪問や、間近に迫った米中サミットを巻頭から追いやったのだった。間違いなく、フェラーリの復活劇は世界中の注目を集めていた。(アレン、p19)
(ちなみにアレンは、ここで、ニューズウィーク誌の言葉の用法を取り上げている。今まさに英雄の列に加わろうとしている、という表現ならば、"on the verge of greatness"のほうが相応しいのではないかというのである。"on the edge"には、崖っぷちに立たされているというイメージがある。)

二人のうちではミヒャエルのほうが、週末全般を通じてよりナーバスだったという複数の証言がある。それまでのキャリアにおいてミヒャエルの沈着冷静ぶりは周知となっていたから、余計に人々の目に留まったのだろう。「誰もが躍起になって二人の言動を探り、どちらがより冷静さを失っているかを分析していた」と語るレポートもある。(GrandPrix.com, Oct. 26, 1997)
木曜日の記者会見(ミヒャエルとジャックのみ出席)に、二人の対比がよく表れている。ジャックは直前、自宅のあるモナコでトレーニングをした他はパリでPR業務をこなしたあと数日のんびりしていたと答える。当然、質問はフィオラノでテストを繰りかえしていたミヒャエル/フェラーリに集中する。ニコラ・ラリーニが月火、ミヒャエル自身が水木と担当し、アーバインが金曜日を引き受けた。新しいパーツも幾つか導入した。タイムはコンマ数秒縮まった。成果を並べ立てるミヒャエルは、しかし訊かれて、こう答える。「(タイトル決戦といっても)基本的にいつものレースと変わらないよ。今現在は何も特別な感情はない。そういうものは、きっと後で感じるんだろう。」(ヨーロッパGP予選後記者会見公式記録, Jerez, 23 Oct. 1997, FIA)
この週末、取材に対するミヒャエルの返答は具体的で説明がかり、しかも強気な内容ばかりだった。それを、当時は、落ち着きと取ったけれど。今にして思えば、彼はがちがちに緊張していたのではあるまいか。前向きな科白も何もかも、ほかならぬ自身に言い聞かせるためのものではなかったか。

数々の資料を見ていくほどに、ティフォシとミヒャエルのみならず、チームサイドとミヒャエルとの間にも温度差を感じる。たとえば、レースを目前にフェラーリはチャーター機の離陸予定を日曜の夜から月曜の朝に変更したり、チャンピオンキャップを大量に準備したり(実際準備したのはミヒャエルのマネージャーのウィリー・ウェバーだが、チームの認可がなければできまい)している。ロスでさえ、水曜の時点で「タイトルを獲得できたらこれ以上のことはないね。本当はイタリアで祝えれば完璧だったのだが…まぁ、我々が勝った暁に(イタリアで)どんな騒ぎになるか、楽しみだよ。私は幸運にもベネトンで二度タイトルを獲得している。あれは素晴らしい経験だったが、フェラーリと共にとなると、格別だろう」というコメントを残している(AtlasF1, Oct. 22, 1997)。トッドに至っては、20日の段階で、「今からお祝いを始めるのは間違いだ」と警鐘を鳴らしている(Motorsport.com, Oct. 20, 1997)から、ファンやチームに浮かれた楽観的な空気が漂っていたとの想像は容易い。
フェラーリはこの日のために並ならぬ多額の投資を断行してきた。それらの資金を提供してきたFIATグループも、フィリップ・モリスも、シェル石油も、タイトル獲得をあてこんだ広告を作成済みだった。フェラーリでタイトルを獲得すること、は、今やミヒャエルの義務と化していた。あの日彼が背負っていたものは、自分自身の夢だけではない。国家の威信、ブランドの伝統、スポンサーの期待、ティフォシたちの夢。どれも抽象的であるがゆえに理論武装ではねのけることが難しいものばかりだった。

土曜の夜、このGPかぎりでF1撤退を決定しているルノーがパーティを開いた。歴代のルノーエンジン・ユーザーをはじめ多くの関係者が招かれ、盛況を博した。しかし、そこにミヒャエルの姿はなかった。1995年にベネトン・ルノーで戴冠している彼にも当然招待状は送られていたのだが、「レースに集中するため」(ドジンス)「ホテルに帰って家族と静かに夕食を済ませた」(ウィンザー)のだ。ウィリアムズのドライバーはふたりとも出席し、大いに楽しんだ。パーティ会場では、誰かがこんなブラックジョークをとばしたという。「きっとミヒャエルは明日もパーティをしないだろうよ」(Dodgins, F1Racing, 1997-Dec)
ガレージでは、まだフェラーリとウィリアムズの2チームだけが仕事を続けていた。隣接したガレージのうち、ウィリアムズのほうからは、音楽が聞こえていた。『朝日のあたる家』――ジル・ヴィルヌーヴが愛した歌だった。パドックで取材を続けていたウィンザーはこう語っている。「幻想的な夜だった。翌日ミヒャエルが相対するのはジャック唯一人というわけにいかないだろうと、そこにいた誰もが思った。」(F1Racing, 1997-Dec)

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フジTVで放映されたレース前のインタビュー(予選後〜スタート前までのどこで収録されたかは不明)を見直してみる。
終始笑顔で冗談も飛び出すジャックに対し、ミヒャエルの表情は強張っている。ヘレスでは奇数グリッドより偶数グリッドのほうが有利だった。ミヒャエルはスタートでトップに出て、あとは最後まで前を譲らなければいいだけの話だった。2台のマシンのスピードに差はさほどなく、抜きどころは限られている。けれど表情を比べるかぎり、ふたりの立場はまるで逆だ。それは精神的に攻めの気持ちでいる者と守りに入った者との差、にも見える。
ジャック自身がインタビューで口にしているように、勝つしか術がない彼に、失うものはもはや何もなかった。F1参戦2年目の若さと勢いも影響していたかもしれない。勝つしか選択肢がないのはミヒャエルも一緒だったが、こちらは些か事情が異なった。そこには勝って当然と言わんばかりの無責任かつ声高な『信頼』があった。一方で、彼を目の敵にしている勢力が彼を包囲していた。そしてそれら全てを把握・理解できるだけの経験を、彼は持っていた。ただ目の前だけを見ているわけにはいかなかったのだ。
そこへもってきて、二人の性格の違いもあった。同じ切羽詰っているにしても、最後の最後で開き直れるか否か。ミヒャエルは最後の最後まで努力を怠らない人だ。ジャックはきっと、そこまでこまめでも律儀でもない。それは、そこそこ満足がいけば自身をも傍観できる強かさにも変わる。最後の最後の、ギリギリの局面で、この差が明暗を分けた、のかもしれない。

"I must win at all costs."
アレンが、48周目の瞬間のミヒャエルの心情を想像して記した一言は、私の胸に重く辛く響いた。どうしようもなく悲しくなって、泣いた。私もあの日、無責任に信頼を寄せていたひとりだった。



スタート〜1回目のピットストップ(第1スティント) に続く