Q:
Your career in F1 lasted 16 years. Was it long or short for you?
MS: It was intense but I loved it.
------ Brazilian GP post-race
interview, October 22nd 2006, www.autosport.com
※予選=オフィシャルサイトのライブタイミング、レース=地上波で観戦しています。
※データ参照: Autosport.com_
長くて短い13年間だった。私の願いは、1つを除いてすべて叶った。
2000年シーズンまでは、引退のことなど塵ほども考えたことはなかった。ミヒャエルは絶対に、何が何でもフェラーリでタイトルを獲る。獲れるまでは辞めない、そういう確信があった。
初めてミヒャエルの引退が視野に入ってきたのは戴冠の翌年、2001年4月、ブラジルGP――期せずして――の後。レース中に1コーナーで2度抜かれ、得意の濡れた路面で苦しみ、実況のジェームズ・アレンとマーティン・ブランドル(ITV)に口々に「今日の彼はレインマイスターではない」と言われた。追われる者としての立場を急に認識し、やがて彼が追いつかれ追い越される様を自分が見届けることになるだろうと自覚した。
その後しかし、ミヒャエルは更に4つのタイトルを獲得し、史上最も成功したF1ドライバーとの肩書きを不動のものとし、懲りずに数々の問題を引き起こし、そうして最速・最強の評判を引っ提げたまま、後進に王座を譲り渡して、去って行った。
正直言って、予想以上の終幕だった。唯ひとつ叶わなかった願いは、物理的に不可能なもの。ミヒャエルが、セナを打ち負かして王座を奪うという、夢。
出会った10ヶ月後には既に永久に叶わないと判明していたその夢だけが、最後に手元に残った。
* * *
久々にデータを見に行って、まずチェックしたのは、レース全71周を通してのドライバー全員の全ラップタイム(L/T)を速い順から並べた"Vertical
Laptime Chart"と呼ばれるものだ。予想に違わず、上からずらっとミヒャエルを表す「MSC」の文字だけが並んでいた。その数、ベスト50周のうち、実に25周分。12秒台を出したのはミヒャエルとマッサとアロンソの3人だけで、マッサの2周、アロンソの1周に対し、ミヒャエルは15周だった。圧倒的な速さだ。
私がいちばん好きなミヒャエルがそこにいた。必要な時に、必要な速さを、必要なだけ持続して叩き出せるドライバー。決して諦めることなく、不可能なギャップもトラブルでさえ実力でねじ伏せてみせる男。
パンクした周回(L9)のミヒャエルのL/Tは1:52.684、通常のインラップは今回1分16秒後半〜17秒台前半だったから、単純計算で35秒程度のロスだ。何事もなく周回できていた場合と比較すれば、この1周でミヒャが失ったタイムは37秒(自己の前周のL/Tとの差から算出)になる。ピットインを済ませてコースに戻った時は、トップのマッサから1分9秒遅れの19位、その後リタイヤなどで順位は17位に上がるものの位置は最下位のままで、すぐ前のモンテイロとの差も約35秒あった。積んだマシンで軽いマッサと互角を張るハイペースで追いかけたが、追いつくまでには15周を要する。私は、ポイント圏内まで挽回できれば御の字と思った。
結果は、ご覧じろ。ミヒャは最後まで、私を裏切ってくれた。マッサが終盤ペースを緩めたことも手伝って、終わってみればトップから24秒落ちの4位。ミヒャは、45秒分の差を、どこか時空の狭間のゴミ箱に放り捨ててしまったのだ。
欲を言えば、この走りをもっと上位で見たかったというのはある。ただ、あそこでパンクして最後尾に落ちるというアクシデントが起きなかったら、ここまで劇的な速さを彼が見せつけられたとは思えない。10番手スタートから1-2フィニッシュを狙っていたのは事実だろうし、私もスタート時、ミヒャなら最悪でも表彰台をもぎ取ると思っていた。だがその場合、ミヒャにはどうしてもリスクを避ける必要が生じる。
プレスに異次元とまで言わしめたあの走りは、オールオアナッシングの状況に追い込まれたからこその産物だ。
レース後の批評には称賛の言葉が溢れた。最後の最後で彼が人々の記憶に焼き付けたのは、そのキャリアを通して批判を浴び続けた傲慢さでも計算高さでもなく、皇帝の余裕でもなく、どんな困難に直面しても挫けず今の自分にできる限りの力を尽くす、努力する姿。私が13年余にわたって見てきた中で最も強烈に印象に残った、生に対する真摯な姿勢。
もしかしたら予選のトラブルもパンクも、レースの神様からの最後のプレゼントだったのかもしれない。
そもそも、鈴鹿からミヒャエルを立て続けに襲った「不運」は、インテルラゴスでは決して決定的には至らなかった。運命の女神はそっぽを向きつつも、去り行くかつて愛した者を気にして、ちらちら振り返ってくれていたように思う。
たとえば油圧ポンプ。フリーで壊れてくれればよかったのに、予選中に壊れたのは紛れもない不運。でも、それが第3ピリオドだったのは不幸中の幸いだった。おかげで10番手スタートで済んだのだ。これが第1や第2ピリオドだったら目も当てられなかった(尤もレースペースを見るとそれでも問題なかった気もするが)。
それから、バースト。1コーナーで発生したため、ミヒャは丸1周スロー走行を強いられた。インテルラゴスのコースは短く、素早くピット作業を済ませても1ラップ近く遅れてしまった。でも、こうも考えられる。マシンに大きなダメージを与えることなく戻ってこられたのは、ミヒャの技巧もさることながら、コースが短かったおかげでもあり、運も味方したのだと。さらに、トラブル発生が9周目で、ミヒャには挽回に丸々60周が残されていた。もしこれがレース終盤だったら、最後尾に落ちてそれきりだったかもしれない。
そういう意味では、最後まで何だかんだ言って勝利の女神の気を引き続けたひとだった。
* * *
2004年開幕直前のヒトリゴトで、私は「王座を奪われる時は、その相手はアロンソがいい」と書いた。すっかり忘れていたが、その通りになった。これもまた、叶った願いのひとつ。
私は当初、アロンソを好感をもって見ていた。ファンになれそうな気がした。今でも嫌いではないが(というより嫌いなドライバーはいない。これだけは断言できる)、ただ今の彼は、私が感情移入できる存在ではない。それは、ある時点で、気づいてしまったからだ――アロンソはミヒャエルではない、というごくシンプルな事実に。
私は、アロンソの中にミヒャエルを見ていた。ミヒャエルがかつて持っていて今は喪ってしまったもの、私が望んでも見られなかった「セナが事故死しなければあり得たかもしれないミヒャエルの姿」を、アロンソに求めていたのだ。
だがその愚かさに気づいても、アロンソを見れば、彼を中心に湧く水色の集団を見れば、どうしてもミヒャエルとベネトンを連想してしまう。突然に消滅してしまった夢の名残を探してしまう。アロンソは、眩しすぎる。だから、私は彼から目を逸らした。今も、まともに見ることができずにいる。
来年、纏う色もチームも変わった彼を、私がどんなふうに見るのか――今はまだ、判らない。
判っているのは、私がミヒャエルのようにのめり込む対象は、今後決して現れまいということ。ミヒャが特別だからではない。ミヒャと出会って、ともに成長した私は、もう二度とミヒャに出会った13年前の視点でものを見、同じやり方で愛することはできないからだ。
何より私には、第2のミヒャを求める気はさらさらない。
それでも、私はF1を観続けるだろう。ミヒャの愛した、スピードの世界を。
* * *
最後の瞬間まで彼らしく振る舞い、きちんとバトンタッチをして、五体満足で引退すること。最後にマシンを降りたあと、満足そうに笑うこと。そして何よりも、幸せでいてくれること。
引退を意識した時から、F1ドライバー、ミヒャエル・シューマッハーに私が求めたものは、究極的にはそれだけだった。
最終戦で、その願いは見事に叶った。すぽるとで放映された、16年間の総括を求められたミヒャエルの、表情。13年余のすべてが報われた、そう思えた。
鈴鹿の後に流した涙は、なかった。
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