パッシング大賞はアロンソ。マシン・オブ・ザ・レースはルノー。でも、マン・オブ・ザ・レースは、キミ。
そんな印象の一戦だった。
レース序盤、とんでもないペースで追い上げにかかる新旧チャンピオンが目を惹いた。その陰で、ちっとも存在を主張しないマクラーレンが、実はいちばん気に懸かっていた。
気がつけば、激しいポジション争いをする新旧チャンピオンの後ろに、ちゃっかり、居た。そして気がつけば、二人の前にいて、きっちり優勝。落ち着いて状況を見極めて、最小限の動きで最大限の結果を持ってきた。ベテランチームの一丸となった巧緻さ、を感じた。
1回目・2回目のピットイン時にかかった時間をミヒャのそれと比べると、最初、キミは相当重かったという予測が立つ。動きが鈍かったのはそれでかもしれない。昨日の予選の如何にかかわらず順位後退予定だったから、最初から後ろから抜くという方針で居たのが翻って幸いしたのだろうか。
アロンソは不運だったという意見が英国プレスに散見されるけれども、運も不運も実力のうち、彼はシケインで強引にクリエンにしかけずとも、ストレート〜1コーナーで充分躱せたはず。そこまで待てなかったのは焦りゆえか、いずれにしろツケは大きかった。
ただ、キミとアロンソの今回の走りは、確かに新しい時代の幕開けに相応しいかもしれないが、かといって至上最高の、とまで讃える気にはならない。S.C.の助けがなければ果たしてここまで華々しい結果になったかどうか(実際、タイムズのケヴィン・イーソンによれば、レース前のマクラーレンのコンピュータ・シミュレーションではどう足掻いても2位以上のリザルトは予想できなかったという)。そして、似たような条件で同じような結果を残したドライバーは、過去にもいるのだ。その中で私にとって最も強烈だったのは、やはり、いちばん最初に自分の目で見たもの――すなわち、1995年のスパ、であり、この印象は永遠に塗り替えられることはないだろう。
今回のレースを象徴的に見る傾向が強いのは、やはり、新時代を担うべき二人が果敢な走りで観る者を魅了したこと以上に、その二人がミヒャエルをパスした――アロンソに至っては2回も――という点において、なのだと思う。地上派では亜久里さんが「ミヒャエルがあんなに抜かれるというのは本当に屈辱的だと思う」とコメントしたし、英国のメディアにもこの手の論調は見られる。
けれども、これは私が何処かおかしいのかもしれないが、私にはどうしてもそういうふうには思えないのだ。悔しさがなかったわけではないが、それはむしろ「畜生やられた!」というレースにつきものの感覚であって、たとえば2000年のスパの41周目のケメル・ストレートエンド(ミカに抜かれた瞬間)によく似ていた。その場合の悔しさはイコール相手への賞賛であり、レース終了後まで引き摺る類の感情ではない。レース後の私の心の中では、漸くミヒャと実力で対等に張り合える奴等が出てきたか、ここまで育ってきたか、という、嬉しさのほうが断然優っていた。今回の件は、彼の闘争心に火を点けるだろう、そうしたらもっと凄いバトルが見られるかもしれない。ミヒャ、あんたはここで黙って引き下がる奴じゃないでしょ、そら、行って横っ面を引っ叩いておやり。
実際にミヒャエルが来期、若い二人と渡り合えるか否か(そして勝つことができるか)というのは、私にとってさしたる問題ではない。ただ、私は彼が勝ち逃げをするという事態だけは、どうしても認めたくなかった。彼がまだ充分に戦える状態の間に、誰かに斃して欲しかった。セナに「勝ち逃げ」されてしまったときから、それは私の中の不文律となってきた。だから、今回の鈴鹿が、とても楽しくて嬉しかったのである。
たとえ玉座を譲っても、荒野の強い風の中、彼の旗はまだ高々と誇らかにひるがえっている、そんなイメージを私は抱いている。ただ漫然とトップを守るより、外野から全力で叩き潰しにいくほうが、よっぽどミヒャエルらしくていい。たとえそこで矢折れ弾尽きようとも、逆風に立ち向かうその背中を、私は愛して止まない。
フィンランド国歌とGod Save the Queenが連続して演奏される表彰式。鈴鹿でこのコンビネーションを聞くのは、かつてこれ以上ないほどに悔しかったものだ。今回は、いっそ清々しさすら感じた。
ミヒャが抜かれたシーンなどよりも、むしろ私はそういう自分の感覚にこそ時代の流れを感じた。
以下、雑話。
トヨタはS.C.出た時点で作戦を変えたほうがよかったかも。ジェンスが駄目だったのは予想どおりだったんだけど(ファンの風下決定)、ラルフがここまでグダグダになるとは思ってなかった。トヨタが経験不足ということなのかしら。
ジェンスは、予選直後から、どうしたって勝つことはないだろうという気がしていた。何故、なんて判らない、ただの勘にすぎない。でも、当たってしまった。苦笑するしかなかった。(今年のシャーシがよくないのはよく解っているが、マシンも実力の内、と思ってもいる。勿論、ピットイン時のトラブルも実力の内。このチームはとにかく「レースが下手」だという印象があって、ジェンスにそれを覆すだけのベクトルは今の所感じられない。)
琢磨の失格については、致し方ないと思う。実際の回数とかどちらに非があるとか関係なく、彼は今期、特攻屋という印象を与えすぎてしまった。サッカーではよくあることで、ファウルをしてもしなくてもカードをよく貰ってしまう選手というのがいる。何回か連続してファウルを見咎められると、レフェリーがその選手に目をつけて、他の選手以上に厳しくチェックするからだ。しかしこれを、ただの被害意識で片付けているうちは、同じことを繰り返すだけだ。目をつけられたくなかったら、態度を改善させるほかない。簡単なことではないけれど、不可能でもない。
リザルト表で、DCの名前がミヒャの上にあるのが嬉しかった。ものすごく嬉しかった。わはははは。
それにしても、地上派は「生中継」という言葉が恥らって逃げ出すような散々な放送だった。ノーカット(途中CMで途切れることはあったが)の国際映像が折角(素人目にも)かなりの情報を提供してくれていたにも関わらず、大勢いるコメンタリー陣(ゲスト・レポーター含む)の誰一人としてそれを拾わなかった。何故そこでリプレイが流れるのか、タイミングモニタに表示されている数字にはどんな意味があるのか。F1だけ(というかフジだけ)の問題ではないけれど、視聴者はどこに疑問を持って、何に気づいていないのか、それを探り出し掘り出して紐解いてみせるからこそ、スポーツ中継には実況がいて解説者がつく意味があるのではないか。単なるサポーターなら、わざわざ公共電波の上で騒がないでもよろしい。船頭多くて山に登ってしまったのか最初から登る気満々だったのか、これじゃ人件費の無駄遣い。(きっぱり)
象徴的なシーンが三つある。
一つ、グリッド上のジェンスのマシンの後方から白い煙が上っていた。国際映像はそれを注視してかなり長時間アップにしていたが、誰も何もコメントしなかった。走り出した後、特に問題が起きなかったようだから、水蒸気とか何かその手のものだったのだろうと推測したが、こういうことはファンが理解してようとしてまいと、説明すべきポイントだからこそ国際映像で取り上げられるのだと思うのだが。
二つ、JPMのクラッシュ。けっこう派手な事故だったと思うし、リプレイも出ていたのに、フォローが一切なかった。誰との接触によるものかも、無事かどうかも、ネットで知った。スタート直後の1コーナーの混乱についても、琢磨のことは話題になったが、ルビーニョのダメージ程度については触れず仕舞い。
三つ、ジェンスのピットインが長かった件。ライブモニタでは、アウトラップの時点ですでに「fuel filler cap on the car」にトラブル発生という情報が提示されていたので、再度のピットインにもまったく驚かなかった。この情報を地上波で言わなかったのは、本気でネタを入手できてなかったのか(だとしたら情報収集能力に多大な欠陥があるぞ)、或いは故意に秘匿していたのか。
どっちにしろ、この放送「だけ」でレースを見るという気にはならない。地上波でなきゃ手に入らない情報も確かにあるが、取り零しの方が圧倒的。じゃあCS入れろよというご意見があるのも知っているけれど、そうまでして映像を見ることにどれだけの意味があるのかとも思ってしまうのだ、最近のF1は。(昔と違ってライブモニタが充実してるからね。確かに、パッシングのときの「それ行けーっ!」って盛り上がる感覚は、ライブモニタ観戦では得られないんだけどさ。)
あ、あとレースみたいな一瞬で状況が変わってしまうスポーツの生放送では、CMの数は減らして欲しかった。サッカーの時はハーフタイムにしか入らないのだから、可能だと思うのだけれど、如何。