オーストラリアGPの雑記_
March05 2005
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ルノーは来る、と思っていた。フィジコの走りには昔から定評がある。嵌れば、化ける。デビュー当初よりも期待値は当然減ったけれど、ずっと心の何処かで待っていた。そして今年のレギュレーションの詳細を知り、ルノーのニューマシンの調子を知ったとき、期待よりも確信に近いかたちで、来る、と思った。
予選で運がよかったのは、確か。けれど幾度も言うように、運を引き寄せるのも、実力のうちだ。願わくば、これを機に不運の権化が大化けしてくれることを祈る。
尤も、私はどういうわけか、フィジコの優勝そのものよりも、フラビオの得意な笑顔が見られたことが、無条件に幸せな気分になれた最大の理由のようだけれど。

予想外の筆頭はレッドブルで、予選結果を見たときには、軽くしてきたなと咄嗟に考えた。いつまで経ってもピットインしないから、心配になったほどだ。何度かタイヤスモークを上げてもいたので、フラットスポットも常に画面に目を凝らしてチェックして、エンジンが保つかしらというのも不安だった。
レースを終えての感想は、思ったよりまともだな、というもの。そっと胸を撫で下ろしたのは事実だが、とはいえ、今後も快進撃が続くかといったら、そうは思わない。今回のDCの4位入賞は、グリッド位置が大いに影響したものだ。スピードやパフォーマンスで多少負けていても、後続が無茶を控えてくれたから抑え切れたという面は否定できない。

その他諸々について。ウィリアムズは、意外とやらかしたなと思ったが(もっと「来ない」と思っていた)、あとからチーム内のコメントを見て、おいおいおいと頭を抱えた。こちらが考えていたこととほぼ同じか、むしろそれよりほっとしているように見受けられる。チームがそれでどうするのやら。(まったくもう…)
フェラーリは、最初の数戦はポイント獲れて満足、と見ていたから、どこを走っていても然程気にはしていなかった。予選順位から、ルビーニョについては、来るか来ないか、どっちかなーと首を捻っていたため、来たら来たで納得だ。ミヒャエルはといえば、予選の顛末を聞いて状況に納得した後は心痛めることもなく、このレースについては最初から捨ててかかっていた。よって、クラッシュのときも、あーあやっちゃった、程度にしか思わなかった。
日系2チームのパフォーマンスについても、御贔屓の面々(要するにジェンスとラルフ)についてがっかりしてないといえば嘘になるけれども、たいして気落ちもしていない。その程度には、予想の範囲内のパフォーマンスだったということ。(ヤーノのパフォーマンス落ちについては、またちょっと別のことも考えているのだが)


* 新レギュレーション感想。

ヤーノの例があるから一概には言えぬが、開幕戦では予選を成功させたドライバーと、スタートを成功させたドライバーがおいしい目を見た。極僅かの例外を除いて、皆タイヤを温存することを第一に、巷で「果敢なアタック」と呼ばれるものを試みようとしなかったのが、最大の原因だろう。マシン性能(タイヤとの相性やセッティングによるマシンバランスなどを含め、その段階でのコンディションのこと)に余程の差があるか、前の人間が派手にミスをするか、どちらかの条件がなくては、コース上でのパッシングは無謀すぎるという印象。地味でも堅実なレースを組み立てられるドライバーに有利なルールという前評判が裏打ちされた恰好だ。
しかし、この状況はレースを積み重ねるにつれ変化していく可能性は高い。まがりなりにも彼らはプロであって、今は手探りでも次第にタイヤ温存とアタックとの微妙な境界線(どの程度までなら無茶ができるかというライン)を見つけだすだろう。尤もDCが一回予選方式に馴染めぬように、中にはいつまで経っても苦手なドライバーも居るだろうが。
何にせよ、ルールとしては年々複雑化しており、首を捻ることもしばしば。個人的には、このルール下での自分なりの楽しみ方を確立するには、もう何戦か様子を見なければならないと感じた。


* 抜け道の存在。

エンジンルールの抜け穴については、事前に(個人的に)示唆されていたので、意外性はなく、ああ宣言どおりやらかしたなと思っただけだった。たびたび言っているように、私はルールの隙を衝いた、いわば揚げ足取りのような作戦はアリだという立場を取っている。F1は、サッカーのように明文化されない多くの紳士協定から成るスポーツとは違う。最初からループホールを警戒して事細かくルールを設定し、プレーヤー(チーム&ドライバー)はプレーヤーでより効果的に他を出し抜くため粗捜しをする、いたちごっこな世界だ。だからBARの採った手段は、少々お行儀が悪いにしても、ルール違反ではない。
ただ、恐らくは当然その抜け道に気づいていながら採用しなかったチームが多かったということは、パドック内でそれとない牽制球の投げ合いがあったのではないかと想像できる(チーム関係者は開幕前にルールを微細検討するので、気づかぬはずがない、というのが知人の言い分だ)わけで、さてそうなると、BARは勇気があったとみるべきか、場の空気が読めなかったとみるべきか。
ひとつ、BARの判断を弁護するなら、彼らは最初にその決断を下したチームでは、ない。先鞭をつけたのはミヒャエルだ。あれがまだポイントが望める順位であったのなら、彼は完走したのではないだろうか。マシンにどうしようもないダメージがあったという可能性もゼロではないが、これまでのフェラーリ&ミヒャエルの戦いぶりを見るに、これ以上走行を続ける意味はないと判断した、というのは、それほど穿った見方ではないはずだ。幸い、彼は接触事故の直後であり、リタイヤしても理由がつけやすかった。そしてそれを見たBARが、しめたとばかりに尻馬に乗った。そんなシナリオの存在を私は疑っている。
しかし、BARは、フェラーリの判断はF1界のスタンダードとしては当てにならぬという事実を考慮するべきだった。さらに、最終的な判断も遅すぎた。あからさまな遣り口が嫌われるのは、散々フェラーリが実証してきたはずだ。変なところでフェラーリの真似などしなくてよいのに、と思ってしまう。
ところでこのルールの穴、ひとつ確認しようと思っていてできずにいたのだが、私の聞いた話では、エンジンが原因でリタイヤした場合のみ適用されるものだと理解していた。だが、これまでの記事を見ると、原因はともかくリタイヤしたら交換してOKというふうに取れる。もしそうなのだとすれば、何とまあ杜撰なルールだろう。隙を衝いたBARが狡いというより、そんな間抜けなルールをつくることにこそ問題があるのではなかろうか?


* コメント大賞。

英国系メディアは、当然のことながら、DCのパフォーマンスを大々的に取り上げた。なかでもタイムズのケヴィン・イーソンはレポートの半分をDCのレース解説に割き、こんな情景を紹介している。読んレポートの中でいちばん生き生きしていた文章なのでちょっとご紹介。

"Coulthard did not waver once and finished with a fourth place that had almost as much impact as Fisichella's victory. Indeed, Flavio Briatore, Renault's flamboyant principal, ran down the paddock with a bottle of champagne and hugged Coulthard as if he was the winner. In a way, he was and the smile was as broad as during any of the 13 grand-prix wins he had before moving Red Bull, while the discomfort of the cold he suffered all week was pushed to the back of his mind."
(The Times online, March 07, 2005)
(クルサードはただの一度も揺らぐことなく4位でフィニッシュしたが、それはフィジケラの優勝に勝るとも劣らない快挙だった。実際、気取り屋のフラビオ・ブリアトーレが、シャンパンを抱えてパドックを走ってきてクルサードに抱きついた様子など、まるで彼が優勝したかのような有様だった。ある意味、確かに彼は勝者であって、満面の笑みはレッドブルに移籍する前の過去の13勝に匹敵するほどだった。) ※最後の一文、風邪ひいてたのか、例えなのかがちょっと不明…。



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