パルクフェルメでクルマを降りてから、ずーっとミヒャの表情を注視していた。納得しているような、していないような、微妙な表情だと思った。
ルビーニョは純粋に喜びを爆発させていた。このひとの本質は、とても可愛らしい。ミヒャエルの不可思議な冷静さと好対照をなしていて、少なくともこれが計画されたものではないことは確かだと思った。
こちらが必死で理由を探している間、実況席では感謝だのお礼だのときれいな言葉がとびかっていたが、ミヒャエルがそんな殊勝な性質かというと、私はおおいに首を傾げる。元来、あのひとは何が何でも他人の前に居たいひとだ。自分がいちばんでなきゃ気がすまないタイプだ。今まで前を譲ってきたのは、そこに厳然たるメリットがあったからにすぎない。普段の生活でどれだけいいひとだったとしても、コース上の彼は違う、傍若無人で傲岸不遜な王様に変貌する。
この意識があったから、私はあれを『ミス』ではないかと考えたのだ。途中で切られたプレカンの映像には歯軋りしたが、ルビーニョのコメント中ちらりと映ったミヒャの視線は、やはり厳しくも虚ろにもみえた。
* 本当のところは何が起こったのか。
記事から読みとれる『原因』は、@譲った A同着を演出しようとした B単純にミスった、のみっつ。
@説はコトを単純に「故意の入れ替え」とみなし、オーストリアを引き合いにだしてフェラーリ―ただし今回はドライバーのみ―を叩いている。記事中には"staged
finish(やらせ)""fixing up(整える、手配して予定を立てる)"といったキーワードが並ぶ。
A説は、ミヒャのプレカンでの主張を概ね信じるかたちだ。「チームは何ら関わっていなかった」および「アクシデントで順位が入れ替わってしまったが、並んでチェッカーを受けようとしただけで譲る意図はなかった」という点で、オーストリアと区別しており、"dead
heat(同着、引き分け)""formation finish""planned photo finish"などがキーワードだ。
B説は、ミヒャがフィニッシュラインで減速してチームと観客にアピールしようとしたとき、ルビーニョがそれほど減速しなかったため、結果的に順位が入れ替わってしまった、とみなす。同着演出説と近いが、ここでは「同着を狙うのは無茶」という現実を重視し、ミヒャにも当初からその気はなかったと解釈する。よって同着云々は潔くない言い訳として一刀両断。キーワードとしては、"cock
up(へま、失敗)""cover up(誤魔化す、取繕う)"など。
どの説でもミヒャへのあたりは概ねキツいが、その理由は@が「順位入れ替えそのもの、観客への裏切りに対する怒り」であるのに対し、Aは「そもそも不可能なことをやろうとする不遜、全力で戦っている他チームに対する不敬への反発」、Bは「自らの失敗を適当な『たわごと』で覆い隠し誤魔化そうとした姑息さ、不正直さへの不快感」とばらばらだ。
ゴール直後、私が咄嗟に思ったのは、「油断した、もしくは同着を狙って失敗した」というものだった。
実はその後プレカンを読んでいったん後者の可能性に傾いたのだが、EJに指摘されずとも1000分の1秒まで同時というのは、よほどの偶然でもなければ無理だ。
『譲った』説は最初から頭になかった。フェラーリが結果を操るチームなのは確かだけれど、今回の場合、ミヒャエルにはわざわざ譲る理由がこれといってない。メリットだとか必要性と言い換えればもっとわかりやすいか。レース前、ミヒャはBBCのインタビューに次のように答えている。
「たとえ僕が勝っても、彼の2位は確定する。つまり僕らは残り2戦自由に戦えるというわけだ。楽しみだね。」(9/27,
"Schuey: No fix this time", Autosport.com)
会見で、彼は必死で水面下の激しい戦いと、いかにチームメイトが今日の勝利に相応しいかを主張していたけれど、走りを見るかぎりでは最初から最後まで、自分が勝つつもりでレースをしていたはずだ。
しかし直感的な判断理由はもっと簡単で、彼の態度が『進んでやったのではない』と主張していた、ように見えたからである。ルビーニョに引き寄せられたとき、彼は一瞬ひるんだ。全身で喜びと感謝をあらわすチームメイトに、「まぁ待てよ」というか、「わかった、わかったから」というか、ともかく宥めるような仕種をした。
結果的に、私の直感はあながち外れでもなかったらしい。後日サンが暴露したところによれば、
「ある関係者の証言では、クルマから降りてきたミヒャエルは憤懣やるかたない様子だった。だがカメラが回っていることに気づくやいなや、ルーベンスの肩に手を回した」(10/1,
The Sun)
下手な言い訳をせず、堂々と認めたうえでルビーニョに弁解させるべきだった、とはバーニーの言だが、『仲のよいチーム』をアピールしたいミヒャは、これができなかった。
競泳をかじっていた頃、壁にタッチするまでは水を掻く手を緩めるなと散々注意された。徒競走でいえば、ゴールラインを駆け抜け白いテープを切るまで、勝利は確定しないもの。
最近のあのひとは、チェッカーを受ける寸前、落とせるだけスピードを落としていた。ピットウォールのチームスタッフたちと喜びを分かちあっているつもりだったのだろうが、勝利の鉄則には反している。今回のようなことがもっと前に起きていてもおかしくはなかった。
おそらく、後ろに居るのがチームメイト―自分のセカンドだということで、油断したのだろう。
ルビーニョが『誤解』したのか、単に減速が不充分だったがゆえの事故にすぎないのか、はたまたチャンスと見て故意にアクセルを踏んだのか、それは判らない。判らなくとも、こちらにとってはさしたる問題ではない。ミヒャが気の抜けたへまをしでかし、必死で言い訳をした、その事実に変わりはない。
* ウィリアムズ
瞬間、阿呆、と呟いた。どちらに対してということもない。双方だ。同士討ちなんぞしとる場合か。
どちらが悪かったのだとしても、どちらに対しても同情はしない。ラルフは無駄な意地を張りすぎたかもしれぬ。だが、グリッドはJPMが前だったのだから、スタートさえ決めていれば順当にラルフの前に居られたはずで、そもそもふたりの競り合い自体が必要のないものだった。ヘッドが怒るのも無理はない。
とはいえ一方で、チームメイト間での衝突―物理的にも精神的にも―が表に出てくるのは、ある意味健全な証拠でもある。メディアの介在で肥大化し、金と利権が複雑に絡みあった現代F1ではなかなか難しいことだけれど、レースを昔ながらの男たちの意地の張りあいのレベルまで簡素化するなら、意地張り合った結果の同士討ちで互いを罵り殴りあったっていい。
それをしないのが現代F1ではスマートなやりかたで、後者を選べるひとを私は評価するが、一方で思うままに振舞うことを禁じられた雁字搦めの現状を少々寂しくも思う。
* ごくごく満足なことども
上記のように別件で頭がわやくちゃになっていたため表現している暇すらなかったが、DCの表彰台は嬉しかった。フェラーリについていくことは端から期待していなかった。久しぶりにいい笑顔を見られたので満足。
TV映像もよかった。生放送で時間があったから、いろいろなシーンを久しぶりに楽しめた。なんでもないようなピットの情景が、ファンにはネタの宝庫だったりもする。ミヒャのオンボードは珠玉。まるで、どこかのモーターウェイをドライブしているのを助手席から眺めている気分だった。
予選で森脇さんがハインツを推していたのが、微笑ましくもあり。
* 雑―悲観論者に物申す。
どうせ勝つのはどちらかだろうと思っていた。だから今回のレースを『面白くなかった』と、私は言わない。
中段の争いは十二分に楽しめたし、順位に影響はなくともオーバーテイクはたくさんあった。最初から先頭集団に変化を求めなければ、いくらでも退屈しない術はある。
本当におもしろいものなら人は見捨てないし、本当に素晴らしいシーンなら結末がどのようなものでも価値は薄れないものだ。
視聴率の低下が騒がれているが、きっとこの先どれだけ誰かさんの独走が続きぶちぶち文句をたれる羽目になろうとも、私はF1を見つづけるだろう。私はフェラーリだけを見ているのでも、ミヒャエルだけを見ているのでもない。
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