開店時間にはまだちょっと早い。壁の時計を見あげて、彼はほっと息をついた。
タンブラーもグラスも磨いたし、テーブルも整えた。カウンターに必要なものはぜんぶ揃って行儀よく出番を待っている。残量の微妙なボトルの予備も倉庫からあげてきたし、あとは表の札を裏返すだけだ。
(今日も来ないんだろうな)
午後のひとときを息抜きがわりのティータイムにすることに決めた唯一の従業員――実態はほとんど店長に近いのだが――は、ケトルを火にかけながらそんなふうに思った。
ここ数日、彼の雇い主はほとんど店に顔を出していない。これまでその暇がなかったことは充分承知していたが、今日の理由はたぶん違う。それは物理的なものではなく、心理的なもの。そしてその根源を「仕方がない」と割り切ってしまえる自分は、ちょっとばかり冷たいのかもしれない。
湯が沸くまでの時間つぶしに、出勤途中に買っておいた新聞を広げた。政治、経済と順繰りに見ていくが、どうしても裏のスポーツ面を見る気にはならなかった。
乗るべきシートが見つからない、というのはどんな気分なんだろう。幸か不幸か、彼にその経験はない。要らないと宣告されるまえに、自分で続ける気がなくなった。そのとき、荒れたのは生き甲斐を見失った自分ではなく、あいつのほうだった。それなら今回は、彼が憤ったり悲しんだりしてやるべきなのだろうか。でも、きっとそんなこと逆立ちしたって自分にはできない。
湯がことこと自己主張をはじめたので、気分を入れかえて茶葉の用意をする。銘柄はありきたりかもしれないけどF&Mのロイヤルブレンド。少し濃い目に淹れてミルクをたっぷり入れて飲もう。
少し口元を綻ばせて、独特の緊張感を楽しみつつ、カップとポットに沸きたての湯を注ごうとした矢先。
傍若無人な電話のベルの音が雰囲気を叩き壊した。知らず眉宇を顰める彼は、しかし、無視してのけるなんて器用な性格とは縁遠い。溜息ひとつ、受話器に手を伸べた。
「はいもしもし。」
一拍待ったが、反応がない。思わず受話器をみつめなおして――もっともいくらみつめたところで相手の顔が映るわけでもなかった――もういちど。
「……もしもし?」
『…………。』
かえってきたのはやっぱり沈黙だったけれど、ぴんとくるものがあった。
ふう、と大きく溜息をついて――もちろん回線の向こうへの意趣返しだ――、彼はもっと実用的な会話をもちかける。
「いまどこにいるんだ?」
今度は、返答があった。が、
『………玄関出て右方向に時速3マイルで5分くらい…かな……。』
「…………。」
内容も言い回しも相当だが、むしろ、叱られるのを恐れて上目遣いに窺うようなその口調に、こんどは彼のほうが沈黙する。判っちゃいたけど―――…子供だ。
(しようがないなぁ)
呆れをとおりこしてもはや父親の境地で、彼は三度溜息をついた。放っておいたら完全に拗ねるのも時間の問題だろうことは、過去の経験が雄弁に物語っている。そうなった後で大変なのは、結局自分。
貧乏くじ、と思わなくもないけれど…。
開店まであと1時間ちょっと。人生、時には諦めが肝心だ。静かになったケトルにちらりと目をやり、口をひらいた。
「車か?…どうせ店に顔出す気はないんだろ。……わかった、じゃあ今からそっちに行くから。……え?…ばか、いまさらそんなこと気にするくらいならもっと普段から気を使え。…そうだ。じゃ、15分くらい待ってろよ、いいな?」
最後は有無を言わせず通話を切って、と同時にコンロの火を点ける。棚から出したばかりの紅茶の缶を、ビューリーズのアイリッシュアフタヌーンにとりかえたら、次は慣れた手つきでジンジャーとシナモンを用意。どうせ彼のことだから、車で来てたって外で待ってるに違いないから、芯から暖まってリラックスできるものを。
妙に甲斐甲斐しい自分の姿に苦笑しながら、彼は天袋の奥からひっぱりだしたバスケットにビスケットを数枚放りこんだ。
10分後。ちりんと店のドアベルが鳴って、後に残されたのは、広げっぱなしの新聞と空っぽのティーポット、そしてドアに揺れる臨時休業の看板。
―――冬の日の午後、ささやかな温もり。