目の前がくらくらする。火花。暗転。不安定なリズムに翻弄される。
極彩色の蝶、視界を舞い飛ぶ。
どちらのものとも知れない息遣い。真夏の暑く気怠い熱気が四肢にまとわりつく。
肌の薄皮いちまい裏を這い上るざわざわしたものを仰け反ってやりすごす。
胸元を辿る汗ばんだてのひら。つかんで、引きよせて、唇をあわせる。
やばいくらいの高揚感。カナビスなんか目じゃあない。よせてはかえす波を全身でとらえて乗って流されて。
…神の国とやらが存在するのなら、きっと俺は硫黄と火とで焼かれるんだろう。
―――― くそくらえ。
■
400メートルダッシュ決めたあとみたいにゼェハァしながら大の字になって目を瞑っていると――だって暑くて怠くてもう何もかもかったるかったし――、ぴたりと濡れた感触、右の頬にあたった。
「ん。」
体勢を変えないまま右手だけあげて受けとって、ぱかっと目蓋を開けば、ベッドの脇で仁王立ちになって缶ビールに口をつけてるエディがいた。
俺の手が握ってるのも、同じ銘柄。
「さんきゅ。」
「おう。」
ごろりと転がってうつぶせになり、プルトップを引く。まずはあふれてきた冷たい泡をぺろりと舐めて、それから炭酸がのどを駆けぬける感じを楽しむ。
ただの水じゃなくて、ビール。今日の俺の気分を、ちゃんと判ってるんだ。
「気が利くよね、エディって。」
「そうか?」
「伊達に女遊び激しいわけじゃないってことかな。」
「…てめぇには言われたくねぇぞ…。」
途端に渋い表情になるエディを、俺はけらけらと笑った。熱はもう引いていた。先刻エディのつけたエアコンが、室内にわだかまった鬱陶しい空気を一掃していた。
「…にしても、ずいぶん唐突だったな今日は?」
「そぉ?」
誘ったのは俺、だ。3週間の夏休み。暇をもてあまして電話してみたら、たまたま掴まった。いちおう同郷のよしみでナンバーはメモってあったから。
確かに脈絡はあまりなかったかもしれない。遊ぼうと持ちかけたのは完全に気分の問題だった。
「だってさぁ、暑かったから。」
ごそごそと起きだしてベッドの上に膝を抱え、満面の笑みを浮かべてみる。
「…は?」
「こう蒸し暑いとさ、したくなるじゃん、なんだか。そんで、おもっきし汗かいてさ、…簡単にトベてよくない?」
「……最近のガキんちょの考えることは判んねー…。」
「そっかあ、エディもうおじさんだもんねー。」
「てめーがガキなんだよてめーが。俺はちょうどオイシイお年頃、だろうがよ。」
犯すぞこのやろ。エディが凄む様に、俺はけらけらと笑った。
「今更じゃない…? これ以上どーするっていうんだよ?」
なんだかすごくハイになってる俺は、ちょっとしたことですぐに笑いの発作に襲われる。ちいさく舌打ちしたエディが――どうせ本気で気分を害したわけじゃないのは判ってる――ビールを脇へよけて、圧しかかってくる。
乱暴にシーツに押し戻されて、俺はさらに笑った。かたちばかりの抵抗を難なく封じこめたエディが、至近で囁いた。
凶悪な、低音で。
「オトナをあんま揶揄うもんじゃねぇぞ、ボク? 痛い目見たくなけりゃ、な。」
不覚にも、腰にぞくりときた。
■
「…ねぇ、どうすんの。」
あーちくしょーもーどーにもなんねーくらいつかれたー…と、俺は深々溜息をつく。返事がないので、枕に顔をはんぶん埋めて怠いー眠いー死ぬーと続けたら、やかましいと頭をはたかれた。
「何が。」
陸揚げされたマグロ状態の俺を後目に、エディはさっさとベッドを降りてキッチンへと姿を消す。
聞いてないわけじゃない、聞こえないふりをしてるんだ。それをずるいと思うのは、彼がオトナだからだろうか、それとも俺がガキだから?
「とりあえずはメシ。腹減ったのなんのって!」
「……だろーと思ったぜ、ガキは食うしか脳がねぇもんなぁ。」
「老化を待つだけのエディと違って俺は育ち盛りだからねっ。」
「よっく言うぜ、そろそろお肌の曲がり角のくせしてよ。」
ばたんとオーブンの閉まる音がした。暖めるだけですぐ食べられる手間なし冷凍食品のひとつやふたつ、今日日の英国人家庭にはあってあたりまえだ。
「で、何をどうするんだって?」
新しいビールを手にしたエディが戻ってきて、俺は一瞬迷ったけれど、いまさら遠慮もなにもないと開き直った。
「何って、来年。」
結構気に入ってた今の場所から放り出され、俺がなんとか辿りつく港を確保できたのはつい先日のことだ。一方のエディはといえば、
「さぁな。」
窓枠に体重預けて、他人事のようにビールを煽っている。
俺も将来、こんなふうになるんだろうか。なっちまうんだろうか、あと10年もしたら? その頃までには、望むものを手に入れることができているんだろうか。
俺は―― チャンピオンになれるのかな…。
「ねぇ。」
ガキのずるさ、でもって俺は笑った。そう、何もずるいのはオトナに限ったことじゃない。
「何だよ。」
「もし辞めてもたまには俺と会ってよ、ね?」
「……さぁな。」
「なんだよつれないなぁもう。」
「ヤローに優しくしたって意味ねぇだろが。」
「そりゃそーだけどー…。」
ぶーたれる俺に、エディは唇の端を歪めた。苦笑とも失笑ともつかない、だけど全然嫌味じゃないかんじで。オーブンを確かめにいくんだろう、ゆらりと身を起こす。
「ま、お前が気にするこっちゃねぇってな。」
すれちがいざま、ぽん、と頭に手が置かれる。
ちぇー、やっぱ負けてるよなーいいオトコだよなー、なんて。
悔しくも微妙に誇らしかったり、した。
―――夏のアレグロ。