PI――Point of Intersection.
【side A】
パドックで行き交いがてら、二の腕を掴まれた。
「あとで付きあえよ。」
耳元で囁く声は、場所も時間も指定しない。毎度のことだ。
「…命令する気?」
すっと目を細めて見上げれば、あいつの隣にいたジャーナリストがちょっと引いた。だからついでに彼のことも睨んでおく。気の毒に思わなくはないけれど、これで口封じは完了する。パドックで、僕の機嫌を損ねたいひとはあまりいない。
もっとも、この手が通じない相手も幾らかはいて、眼前の男などはその最たるもの。
今も、ふん、と鼻で笑って去っていく。
見送る愚を犯すわけもなく、僕はそのまま何事もなかったかのように歩き出した。そうすれば誰も僕を問い質したりできないことを知っているから。
左の二の腕が微熱を訴えていたが、きれいさっぱり無視を決めこんだ。
【side B】
どうして、と問われれば、なんとなく、としか答えようがない。
気分で相手を決めて、気分で何をするか決める、していることはいつもと同じ。なぜか相手がこいつだってだけで。
腕のなかで快感を享受する肢体を冷ややかに見下ろした。史上最短で史上最高記録に並ぶ5冠を達成した英雄――そんな威圧感もいまはなく。
優しさの欠片もない扱いにだって素直に反応をかえす慣れた身体。気持ちなんて通っていなくても、寝ることはできる。そう、こんなにも簡単に。
重ねる肌が馴染みを深めるほどに遠ざかっていく心を想い、苦く口もとを歪めたそのとき。
突然さしのばされた腕が首根っこに絡んで、抗えぬちからでぐいと引き寄せられた。
その体勢はどちらかといえば受けとめる側に負担がかかるもので、やつは俺の下で顔を顰め、唇を噛み締めて、自ら招いた衝撃に耐えている。まったく予期していなかったので、俺としたことが一瞬リアクションが遅れた。
ふっと瞼を開けたやつのまなざしが俺を射貫いたのは、直後。
苦しげな面持ちはそのままに、にやりと笑って、告げる。
「来いよ……もっと……っ」
僕を征服し尽くしてみせろよ、と。それはそこいらへんの女どもなど比類におよばぬほど艶めかしく。
「……いい覚悟だ。」
不覚にも見惚れてしまった腹いせは、十二分にできそうだった。
【Both?】
年甲斐もなく頑張ってしまった、と思う。
何もこんなところでむきになる必要はなかったのだ。あちこちが怠くて身動ぎする気力もおきやしない。そろそろここを出ないとならないってのに。
「おまえ、程度ってものを知ってるか…?」
思わず愚痴がこぼれた。くっと隣で笑う声がする。
「どっちがだよ。さては、いよいよ限界を悟ったか?」
そんなふうに揶揄う声の主も、他人のことは言えない状態でのびている。
「………言うな…。」
「あれだな、いわゆる歳ってやつだな。」
「やかましい。お前がだろ。」
「お互いさまだろ」
ふたり、顔を見あわせてにっと笑った。見る者によっては友好的なと評するだろう。あるいはやや物騒なと感じるかもしれない。別にどちらでも構わない。
ストレスの解消になったのは確かだから。
「さて。それじゃ行くかな。」
シャワーを浴びて着替えて、そうしたらもうここには用はない。少なくとも今日は。
「おう。」
だらしない恰好のまま片手をあげる男を一瞥して、彼はドアを開けた。
ぱたん、と音をたてて閉じられたドアの奥で、どこまでも静かな部屋にひとり取り残された男は呟いた。
「あーあ…眠ぃ…。」
【…Happy End?】
心が通っているわけではない。まったく違う人間、まったく違う生きかた、ベクトルも色も太さもふたりの人生を彩る線はこれっぽっちも似ていない。
ただ、時折どうしたことがふたつの線が交わる瞬間がある。一瞬だけ、隔てる距離がゼロになる。
そういう瞬間を、これまで積み重ねてきた。
そして、きっと、これからも。