そういう関係。





 そこで出くわしたのは、まったくの偶然だった。
 開幕戦の木曜日のパドック。うろつく人間の数は少ないなどとは口が裂けても言えないけれど、年に17戦も世界を飛び回っていれば、たまたまお互いふたりっきりだった、なんてことも時には起こる。軽く挨拶をして通り過ぎるのが、グランプリの日常というもので。
 ただ、そいつがこれ以上ないというほど嫌そうに顔を顰めたから。
 思わず、足を止めてしまったのだ。




「だからこの体制、か?」
 頭の両脇に腕を縫いとめられ押さえつけられて尚、その双眸は揺るがない。
「いいだろ、せっかく開幕したんだし」
「それとこれといったいどういう関係が、」
「……会いたかった」
 言い募ろうとするのをさえぎって呟いたら、ふつりと言葉が途絶えた。
「―――って、言ったらどうする?」
「…くだらない」
 視線を逸らしたのは一瞬で、すぐに強さを増した瞳が見上げてくる。
「それで、今年も走らないマシンの憂さを僕で晴らそうってわけかい」
「心外だな、そんなふうに思われてたのか」
 こんなに大切に思ってるのに?
 耳元にキスを落としざま囁けば、はん、と鼻先で笑い飛ばされた。
「あいにく僕はその辺のオンナノコじゃないんでね。君の口八丁に躍らされるほど甘くない」
「ほぉぉ、その割にはほいほいついてくるじゃねぇか」
「……言って欲しいか、理由?」
 生意気千万な科白は、憎たらしいほど完璧な笑顔とともに。ただし、目は笑っていない。いつもバイザーの中に見る真摯なまなざし。
 畜生、反則だろそりゃ。
「………必要ねぇな」
 言うなり俺は身をかがめて、数ヶ月ぶりの肌を味わう作業に集中した。



 聞くのが怖い、わけでは決してなかった。本当に訊く必要がなかったのだ。
 繰りかえすひとときはただ、楽しむためのもので。
 薄闇にしなる背筋と、シーツを握りしめた拳。
 きつく閉じたきりの瞼。
 必死で噛み殺しながらもふとした拍子に緩む唇。
 抑えきれず洩れる声のトーン。
 そういう付随してくるものが、単純に気に入っているだけだ。そういうことを、自分がさせているのだという事実に、ある種の満足感を抱いているからだ。
 すべては偶然の賜物にすぎず――運命だなんて考えたこともないし、恐らくコイツもないだろう、と思う。


 きっと、あそこで会わなければ、今日は何もないままに終わっていた。


 南国の蒸し暑い夜にも、空調の利いた部屋の中は快適で、純粋に目の前の躯に没頭できる。うっすらと湿り気を帯びた胸にてのひらを這わせ、抱えあげた腰を際限なく揺さぶりながら、俺はふと気がついてその口もとに手を伸ばした。
「おい…」
「んん…っ」
「あんまり噛むなよ唇。腫れちまうぞ…」
「ん…ふ、くぅ…っ」
「だからって指噛むんじゃねぇよ、大事な商売道具だろうが」
「ぁ…ぃや、だ…っ」
「そんなに気になるんなら、こっち銜えとけ…」
「あ、……んあっ…あぁ…っっ」
 強引にはずさせた右の人差し指の代わりに、俺の左手を提供してやれば、今度は口を閉じないよう懸命になる。結果、歯止めの利かない喘ぎがこぼれて、部屋にたゆたう。
 いつものことだ。俺を傷つけないように――万が一にも仕事に差し支えることのないように、という配慮だと、気づいたときには妙にくすぐったい気持ちになったものだが。
 こういうプロフェッショナルさは、嫌いじゃないのだ。
「…なんだよ、せっかく貸してやってるのに、使わないのか?」
 喉から顎にかけて舐めあげつつ揶揄ったら、薄目を開けて睨めつけられた。
 何か言いたそうなので、仕方なく指をどけてやる。
「あ? 何だよほら、言ってみろ」
 もちろん、動きを止めてやるなんて親切はしてやるわけがなく。
「は、あっ…こっの、ばかやっ…んぅ、……っっ、い…っかげん、に…しろっっ…」
 ぎりぎりと腕に食いこむ指のもたらす痛みさえ、このときばかりはたまらないほどの快感になると、涙目で怒るコイツはきっと想像もつかないだろう。
 俺は、さっきのお返しとばかりににっこり笑って、宣言してやった。
「嫌だね」、と。


 潔癖なこの男が、どうして未だにこんな乱れた関わりあいを捨てずにいるのか。
 問い詰めてみたい気持ちは確実に存在するけれど、それをしたが最後、終わりを迎えるような気がしている。
 だから、俺は何も言わない。
 

 まだ、終わらせてしまうには勿体ないから―――






「あーあ…」
 ひとしきり汗をかいたあと、隣に転げ落ちた惰性でまぐろになっていたら、横合いからどっぷり沈んだ溜息が響いた。
「何だ」
 面倒くさいので、顔だけをそちらに向けて訊ねる。
 ミハエルは、ちらっと俺の顔を見やって、答えた。
「とうとう開幕してしまったな、と思ってね」
「おや。お前はてっきり待ち遠しかったもんだとばかり思ってたけどな」
「走るのはね。……コレがついてくると思うと憂鬱にもなるよ」
 心底気に入らなさげな声音に、苦笑を誘われる。実際、めちゃくちゃ不本意なのは知っていた。
 それが何だ、としか俺には言えない。本気で嫌なら、拒めばいいだけの話だ。
「いいじゃねぇの、奥方の目をかすめては隔週木曜日の逢引だなんて、スリル満点で。それでこそ不倫のし甲斐があるってもんだろ」
 笑い交じりに言ってやった途端。
 ふ…っと相手の纏う気配に異変が生じて――沈黙とともにまじまじと見つめられるってのは、さすがに居心地がよくない――不承不承、俺は身体ごと向き直った。
 ミハエルは顔を顰めて、実に気難しげな表情を浮かべていた。
「…何だよ」
「不倫、だったのか、コレ?」
 真剣な顔つきで、突然何を言い出すかと思えば。つられて眉をひそめる。
「……違うのか?」
「不倫っていうのは、パートナーがいるのに他の人を愛してしまった場合のことだろ。愛がないのは、不倫とは言わないんじゃないか」
「………厳密に言やそうかもしれねぇけどよ」
 こんな、どうでもいい瑣末事を、いちいち気にするのがこの男らしいというべきか。
 確かに俺たちの関係はもっとシンプルな、そう、たとえばストレス解消の手段。気が向けば肌を合わせ、向かなけりゃ話もしない、そんな気楽で、成り行きまかせの情事だ。
 であればこそ、今までこうして続いてきた。
「けど、一回だけなら遊びだって言えるだろうが、こう何回も繰りかえしてて『遊び』ってのは、それこそ愛する家族に失礼なんじゃねぇか」
「…………好きで続けてるわけじゃ、」
「ない、とは言い切れねぇよな。え?」
「…………」
 にやにや笑う俺を、ミハエルは無言で睨みつけた。背景にブリザードでも背負っていそうな眼光だが、顔赤くして凄まれても、ちっとも怖くない。
 ……と、そこで口に出すほどこっちも命知らずではないので、やれやれ手のかかるヤツだ、そんな考えを押しやって先を促してみた。
「…じゃ、お前はこいつを何て形容するんだ?」
 21年ぶりに跳ね馬に栄冠をもたらした英雄は、しばしじっと考えこんでいたようだったが、やがてはたと思い当たったように、真顔で、言った。


 

「…エクササイズ」




 荒々しく閉じられたシャワールームのドアを横目に、俺がかなり長時間、笑いの海に沈没していたことは言うまでもないだろう。


 エクササイズ、ねぇ。
 そうだな、しょうがねぇから、そういうことにしておいてやるよ。




 


オチのためだけに作ったネタ(笑) この年の開幕戦はセパンでした。チームが別れて2年目、冬テストは専らイタリアでやるフェラーリと、スペインに出向くことの多いイギリス・チームのジャガーでは、本当に久々だろうなと。それだけなんですけど。(それだけかよ) 個人的には気に入ってます。





ウラSSトップ.