――― 帰還 ―――





 ほそい橋が新しいポディウムへと勝者を誘う。その袂に、ロリーが待っていた。
 比類なくうつくしく気が遠くなるほど速く憎らしいくらい壊れない完璧なマシンを創りあげた男は、彼をみとめるなり相好をくずした。
「お帰り、エディ。」
 ぽんと肩をたたかれ、彼も満面の笑みをかえした。
 あのとき手にしていたものがこの男の最高傑作だったなら、彼は間違いなくチャンピオンの称号を得ていただろう。けれど、それを惜しむ気持ちは今はなかった。
 クルマがしゃんとしていないぶん、この『勝利』はそっくり彼の手腕に帰するものだ。ゆえに、彼は誇っていい。いちばんにチェッカーを受けたのでなくても、間違いなく彼も今日の勝者のひとりなのだから。

 * * *

 のっそりとコースの右端に寄せる車影が視界にとびこんできたとき、それが意味するものを直感で悟った。背筋にすっと芯が通り、ステアリングを握る手に力がこもる。
 ドライバーの本能が告げる、チャンスの到来。
『エディ! ライコネンだ、ライコネンが止まったぞ!』
 耳元でがなりたてるメカニックの言葉を、もはやどうでもいい事として聞いた。欲しいのは、そんな説明じゃない。
「後ろは誰が走ってる?俺との差は?ペースは?」
 矢継ぎ早に繰り出した質問は、チームを現実へと引き摺り戻す意図も含んでいる。上擦った声が飛び交う無線のなかで、彼だけが落ち着いていた。
 昔は、わざわざ訊かなくたって必要な情報はあふれんばかりに流れこんできた。それが勝利の方程式を支えていると、誰もが理解していた。だがいまは彼がチームをリードしてやらなければならなかった。それこそが、彼がこのチームを移籍先に選んだ理由だった。
 すべては、彼の双肩に。
 与えられる情報を頭の中で整理し、計算し、今やるべきことを正しく選択し、あやまたず実行する。かつて心身に叩きこまれた習慣は、まだ生きている。
 そう、ここはモンツァ。ここで無様な姿を晒すわけにはいかない。なぜなら、この地の人々は決して忘れないから――栄光の色を纏って走った男たちのことを。
 無線が彼の現在地を報せ、エディは引き結んだ唇の端をわずかに歪めた。
 頭を上げ、顎をひく。久しぶりの快い緊張感が全身を満たす。
 胸の中で高らかに叫んだ。

 さぁ見ろ、俺がアーバインだ。
 憶えてるだろう、あの日々を。お前たちが俺に果てない期待を寄せたあの夏を。
 そうだ、俺を見ろ――あの頃のように…!

 * * *

 ポディウムからの眺めは、相も変わらずうつくしかった。
 月日が一気に遡ったような錯覚をもたらす、一面の赤。真紅の海。旗も人も止まることを忘れたかのごとく寄せてはかえす。どよめきとあざやかなホーンの音は、さながら波涛の響きにも似て。
 彼の着ているオーバーオールの緑色だけがとりのこされて、時の流れを主張している。
 高みに立ち、傲然と見下ろした。自然と笑いが止まらなかった。その光景は熱く強く燃え滾っていたあの頃と何も変わらなかったが、当時よりずっときれいに見えた。眩しかった。
 これを見るために自分は地べたを這いずり回ってきたのだという気がした。ざまあみろ、と胸を張った。ひとつだけ異なる自らの纏う色合いが、むしろ誇らかだった。
 紅い波はのたうって、彼らの喜びを全身で示す。
 深い森のみどりと、混じりあって揺れる。
 それは気高き女神を称える色。情熱の紅と、神聖なる緑。一年のうちで、この地がもっとも輝く瞬間。
 狂っていると思う。ティフォシと呼ばれる彼らはとうに狂っていて、とおく遥か昔からただひとつの栄光にすべてを捧げて喝采する。
 そして自分もまた、狂っているのだと彼は思う。その情景を見てこれほどにかえってきたと安堵する自分は。
 チームを離れ、逃れたつもりで、この熱気の魔術からはきっと一生逃れられないのだろう。女神の美酒はそれほどに芳しい。
(しょうがねぇなぁ)
 何に対してか、そう思った。腹を括るしかないのだと悟った。彼が、かつてこの集団の紡ぐ狂喜に荷担していた事実は、そしてその呪縛を快楽として享受していた過去は、決して拭い去れるものではないのだった。たとえ、その楽園に踏み入る資格をもはや持たなかったとしても。
(…………あ。)
 そのとき、とあることに気がついてエディは弾かれたように振りかえった。ミハエルと目が合った。途端、逸らさないその瞳に似合わぬほど優しい彩が浮かんだ。
 唇がかすかに開く。歓声にかき消されて聞こえなかったけれど、何を言われたのかは口の動きで判った。
「エディ、おかえり。」
 まるで最後通牒のようだった。
 エディはちら、とおのれの袖に視線をやり――― それから破顔した。

「…ただいま。」



 聖なるこの地にもっとも相応しいふたつの色彩は、今日の表彰台にそっくり再現されていた。




 


2002年イタリアGP。エディのシート喪失に慌てて冬に出したペラ本に掲載しました。完売したので、遠慮なく転載。
実は、この話を載せたくて、作った本でした。――話自体は、ポディウムの上で微笑み交わすふたりを見て咄嗟に思いつき、すぐに書き始めたものです。広い意味ではカップリングになり得ますが、むしろ「エディお帰り!」という自分の気持ちが迸った果ての産物。なので、自分の中ではあくまでノーマルです。(笑) 小品ですが、個人的には気に入ってます。





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