今年もまた、シーズンが終わった。
最後の最後で1ポイントをもぎとったマシンを停め、ステアリングに両手を預けたままエディは大きく息を吐き出した。やれやれ、という気持ちが心の大半を占めていた。
一拍おいて、コクピットから脱出する。ヘルメットとバラクラバを取って、明るい金髪の頭を、ぶるっと勢いよく振った。
湿度の高い南国では、レース中にかいた汗が引くこともなく、べたべたと肌に張りついて気持ち悪い。風は結構あるはずなのに、ちっとも涼しさを感じないのだ。
早いところ用事を全部済まして、シャワー浴びて着替えよう。歩き出したエディの視界の隅に、なにやら揺れているたくさんの赤いものが飛びこんできたのは、その矢先だった。
何だ?と目を凝らして、直後エディは、頭を抱えて地面にしがみつきたくなる。去年ダブルタイトル獲れなくて本っ当によかった、などという不埒な安心の仕方をしてしまったとしても、彼を責められる者はいないだろう。
(いやはやまったくよござんしたね…)
パルクフェルメで飛び跳ねているのは、長年の夢を叶えた昨年までの仲間たちだった。チームカラーのシャツの胸を誇らしげに張る、スタッフひとりひとりの頭の上に、同色のカツラが乗っかっている。輪の中心でおどけてみせるふたりのドライバーも、むろん例外ではなく、そっくり同じものを被っていた。
不意に、苦笑が浮かんだ。
そのシーンを外から見ている自分、という情景が、妙に腑に落ちたからだ。自分を含めたものごとを、ついつい客観的に見てしまうのが、生来の癖だとはいえ。
「つまりは、全部納まるところに納まったってわけか」
エディは口の中で呟いた。
運命論とやらとは程遠い次元で生きている彼だが、それでもあの輪のなかで、真っ赤なカツラを被ってはしゃいでいる自身の姿というものは、まるで想像がつかない。それは、もし彼が昨年タイトルを獲得していたら、実際に起こり得た場面だというのに。
だから、これで正しかったんだ。
誰にともなく、そんなことを思った。
狂乱騒ぎを横目に、さっさと計量へ向かう。騒いでいる連中は知った顔ばかりだったが――1年前まで在籍していたチームなのだから当然だ――、あえて声をかけようという気にはならなかった。
コンストラクターズは昨年も獲っているし、ドライバーズに関しては、鈴鹿で祝福の言葉をかけた。それで充分だろうとエディは考えていたし、なにより、もう自分には関係のないことだという気持ちが強かった。
そう、今更なのだ。何もかも。
屋根の下に入った途端、す…っと、外の喧騒と暑さが同時に遠ざかったのが、どこか印象的だった。
「おつかれ」
モーターホームでシャワーを浴びて出てくると、ソファでジョニーが雑誌をめくっていた。既に着替えており、短パンの左足に巻かれた包帯が目を引く。事故があったことは耳にしていた。
「よぉ、早かったな。もういいのか」
「まあとりあえずは。打ち身だけみたいだし、痛み止めもらって休んだから、少しマシになったよ。帰国したら、一度ちゃんと診てもらおうと思ってる」
びっくりしたけどね、とジョニーは何でもないことのように言う。
「ああ、それがいいな」
濡れた頭をタオルでがしがしひっぱりながら、エディは狭いモーターホーム内を横切った。
「ときに何を熱心に見てんだ?」
備えつけの冷蔵庫から自分用のドリンクのボトルをひっぱり出し、振りかえりざま、チームメートの手元を何の気なしに覗いた。そこで、本日二度目の脱力を経験した。
「……そんなもん読んで楽しいか…?」
ジョニーが開いていたのは、エディが最近受けたインタビューのページだったのだ。ジョニーは翳りのない笑顔で、にっと笑ってみせた。
「ん? いやぁこれがなかなか。現実的に見えて、その実かなり強気の発言ってのは、読んでいて面白いよね。根拠がありそうでないところが、またいい」
「…………そいつは皮肉なのか誉め言葉なのか、微妙なところだな」
「誉め言葉として受けとっておけば、問題ないんじゃない?」
「おお、んじゃ遠慮なく」
エディは向かいにどっかり腰を下ろした。自分に関する記事を目の前で読まれるというのは、気恥ずかしくはあったが、嘘や方便を喋ってたつもりはないから、どうでもいいといえばどうでもいい。
それきり興味を失ったように、エディはひとしきり自分の髪と格闘していた。
「5年後…か。いったい、何やってるんだろうな」
やがて、ぽつんとジョニーが沈黙を破った。エディは手を止めて、タオルの隙間から前方を窺う。
言葉の意味は、すぐに解った。5年、それはエディが、自分で口にした数字だ。今は陽だまりに午睡を貪っているビッグキャットが、目を覚まして高く遠く草原を跳び駈ける日までには、少なくとも5年、もしかしたら7年かかる、と。
「さぁね。どうせ、なるようにしかならねぇだろ」
今までだってそうだったじゃねぇか、とエディは鼻を鳴らした。唇の端が皮肉げに歪む。たとえば5年前、自分たちが置かれている現状のうち、いったい何パーセントくらいを、誰かがどこかで予想していただろうか?
ジョニーは悪戯っぽくこっちを見た。
「確かに、あの頃は君がチャンピオン争いをする日が来るとは、これっぽっちも考えてなかった」
「……おい」
自分がF1辞める日が来るとは、とは言わないんだな。一瞬、そんな考えが思考を掠めたが、エディは顔には出さなかった。
頭に乗せたままだったタオルを無造作に放りだし、大きなあくびをした。テーブルの上に置いたドリンクに、左手を伸ばす。ストローを銜えつつ、行儀悪くソファに背を沈めた。
「現実的に考えたまでだ。けど、だからって、始めっから5年かけるつもりで取りかかるわけじゃないぜ」
「そりゃ、元の取れない投資は君の主義に反するもんねぇ」
最年長王者の記録を塗り替えるつもりなら別だけど、とジョニー。
「だからどうしてそうひとこと多いんだ…」
「君に言われたくないね。ま、あとはよろしくってことで」
「他人事だと思いやがって。…忘れてたよったく」
「何を」
エディはふい、とふて腐れた素振りで横を向いた。
「猫は調教に向かねぇ動物だってコト」
ジョニーは声をたてて笑った。
「でも大型猫科動物は、サーカスや何かで使うじゃない」
「時々トレーナー食い殺すけどな」
ほとんど内容を伴わない軽口の応酬。今期の成績だの今日のレースだの、事故の原因だの、それから今までの思い出だの、そういった話題はふたりの口にのぼらない。
あり得たかもしれない未来を愁うことほど、非建設的なことはないだろう。時間は、過ぎてしまえばそれっきりなのだ。後ろを振りかえってあれこれ悩むのは、終わりの日が来てからでも、きっと間に合う。
「さてと。ほんじゃ、行きますか」
しばらく他愛ない会話を続けたあと、エディはよっこらせ、と腰を上げた。うっわ年寄りくっさー、とジョニーが呟くのを、うるせぇ、と半眼で睨みつける。
「またロッポンギ?」
「違ぇよ。マカオ」
「ああ。ゾーイちゃんによろしく」
「よろしくって、面識ないだろーが」
「いいからいいから。細かいことは気にしない」
ぱたんと雑誌を閉じ、立った所為でだいぶ高いところに移ったエディの顔を、変わらぬ笑みでジョニーは見上げた。それから、右手を差し出す。
「Good luck」
ドアへと一歩を踏み出しながら、エディもてのひらを開いた。
「…You too」
ぱちん、と乾いた音がモーターホームの中に響いて、すぐに消えた。
未来は、いつだって、自分の足下が起点なのだ。