―― FOOTSTEPS




 レース後のピットレーンは、玩具箱をひっくりかえしたようなお祭り騒ぎだった。
 人でごった返しているのはいつものことだが、今日はそいつらが、揃いも揃って浮かれていやがる。歩きにくいことこのうえない。
 宿願のドライバーズタイトルを獲得した真紅の集団は、自分たちで踊り狂うだけでは飽き足らず、その両腕の届く範囲、片っ端から抱きついたりキスしたり、凄まじかった。不用意に彼らの半径1メートル以内に近づいた者は、尽くその餌食となり、輪の中に引きずり込まれては、錯乱した雰囲気に否応なく感染していく。更に、どうやらウイルスは、周りで笑って見ている人々や、まだ仕事を続けている面々にも、確実に影響しているらしい。
 あっちもこっちも、救い難い有様だ。
(ま、仕方ねぇか…)
 ゲルハルト・ベルガーは軽く頭を振って苦笑した。
 何せ、21年振りなのだ。ただでさえ陽気なイタリア人連中に、このシチュエーションで大人しくしとけと言うほうが無理だし、長年無冠の名門チームの復活を、彼らの努力を間近で見てきた関係者が祝福するのはもっともだった。ゲルハルト自身、ついにやりやがったな、という感慨を抱いている。
「あっ、ゲルハルトぉぉ !! やったよぉーっっ」
「あーはいはい。良かったな、念願叶って」
 自分の姿を目にするなり飛びついてきた、顔なじみのメカニックから器用に身体を躱しつつ(野郎のキスなんざ冗談じゃない)、ゲルハルトはあやすように背中をぽんぽんと叩いた。ついで2人目、3人目…。
(俺は保父さんかい…!!)
 そう思いながらも突き放す気にはなれないのは、これほどの長い間、世代から世代へと、夢を忘れずに追いかけて、受け継いできたかつての仲間たちに、素直な尊敬の念を抱いているからだ。
 全力を尽くした人間が、感極まって涙を流す様は、情けなくも恰好いい。
 とはいえ、いつまでもこうしているわけにもいくまい。何せ仕事の中途で抜け出してきたのだ。ゲルハルトは首を回して、その近辺にいるだろう目的の人物を探した。主な捜索範囲は、フェラーリの隣のピットだ。と、ファンに挨拶するために姿を現した本人と、ちょうど目が合った。
「よお」
 未だ自分にへばりついている赤い物体(複数)を、今度こそ力任せにひっぺがし、ゲルハルトはにっと笑って声をかける。挨拶を終えて奥へ戻る彼について、遠慮なく、これまた古巣のガレージに入り込んだ。撤収作業中のガレージは、カバーすらかけていないパーツがそこここに転がっているが、こんな時くらいは、特に咎める者もいない。じろじろ眺めなけりゃ良いだけの話である。
「やられたな。…どうだ? タイトル失う気分ってのは」
「嫌なこと聞くなぁもう。記者会見で言ったとおりだよ。すーっごく、悲しいね」
 にやにやと問われたミカは、軽く肩を竦め、『すごく』の部分を強調して答えた。ゲルハルトが、ぶっと吹きだす。
「悲しんでる野郎の顔かよ、それが。さばさばして、挙句は気障ったらしい科白吐きやがって」
 なーにが、良い勝者は時に良い敗者とならなくてはならない、だよ。
「俺はまた、ミハエルに対する嫌味かと思ったぜ」
 まさか、とミカは苦笑した。ひらりと右手を振って、パネル沿いに設えられた用具入れに寄りかかる。それから、ここまで届くお隣のどんちゃん騒ぎに、なんだか耳をすますような表情になった。
「こういう日もあるよ。いつだって勝てるなんて思ってたら、駄目だ。確かに昔は、そんなふうに考えてた時期もあったけど……実際、勝てない時はあるし、そうなったら事実はちゃんと受け入れないとね。ちょっと前までは、勝てないほうがあたりまえだった。その頃のことを、忘れたわけではないんだ、僕は」
 淡々と喋るミカの横顔は、気負いも何もなく、自然な穏やかさに満ちている。じっと観察していたゲルハルトは、やがて微苦笑を浮かべて、目を伏せた。
「ふん……ま、あいつも報告してたみたいだからな。ちゃんと」
 表彰台のてっぺんで、眸を閉じて、祈るように天を仰いだ。勿論その行為の真の意味はミハエルにしか判らないものだ。ただ、解釈は各人の自由。少なくともゲルハルトには、祈っているように見えた、それだけのこと。
「ゲルハルトさ…もしかしてミハエルにタイトル獲って欲しくなかった?」
 不意に呟かれたそんな科白に、ゲルハルトは驚いてミカを振りかえった。
「あぁ? …お前な、どっからそういう思考が出てくるんだ。俺が、あのチームを復活させようとしてできなかった1人だからか?」
「……そうじゃなくて」
 ほんの少し背の高いゲルハルトを見上げるミカの眼差しは、思いの外真剣だった。真っ直ぐな――痛いほど真っ直ぐな。これとどこか似た彩の双眸を、ゲルハルトは知っている。…いや、知っていた、というべきか。まともに見返すことができなくて、少し視線をずらした。
 先ほどミカがやったように肩を竦め、わざと明るい声色をつくる。
「………ま、いろいろと思うことはあるけどな。でも、だからって、タイトル獲って欲しくないとまでは思わなかったぜ」
「そぉ? 何だか、寂しそうな顔してたから聞いてみたんだけど」
 ゲルハルトの態度を見てとって、ミカはにっと笑って冗談めかした。
(こういう敏さは、あいつは持っちゃいなかったな)
 咄嗟にそう考えて、ついでゲルハルトは曖昧に笑う。やれやれ、今日はどうしても、思考がそっちに行っちまうらしい。
 まるで自分らしくない感傷を少し持て余し、強引なのは百も承知で、話題を転換した。
「ミカ、これで、あいつがもう辞める、なんて言い出したらどうする?」
 今度は、ミカがちょっと面食らった表情になった。反撃成功。ぱちぱちと数回瞬きをする様に、ゲルハルトの口の端が上がる。しかし悦に入ったのも束の間、小首を傾げたミカは、断言したのである。
「…それはないでしょ」
「やけに自信ありげだな。なんでそう思う?」
「だって」
 更に問いつめられて、ミカは躊躇いがちにいったん爪先に視線を落とし、それからぱっと顔を上げた。
「だって、僕が辞めさせないもん。勝ち逃げなんて許さないよ」
「……さよで」
 不覚にも気圧された。口達者で世の中を渡ってきたプライドが、思わず言葉を失うという失態を、すんでのところでを回避した。


 
 ピットレーンを本来の持ち場へと戻るゲルハルトの額に、ぽつりと冷たいものが当たる。振り仰ぐと、低く垂れこめた灰色の影から、針のような雫が次々に落ちてくるのが見えた。この調子だと、じきに大雨になるかもしれない。
 ふと、6年前の日本グランプリを思い出した。前が見えないほどの激しい降りで、マシンをコース上に留めておくだけで疲労困憊だった。あいつ――アイルトンのいない、初めての鈴鹿。
 もし、レース中に雨脚がもっと強くなっていたら、今日の結果はまた、変わっていたかもしれない。微妙に濡れたあの路面であればこそ、ミハエルはミカを上回ることができたのだろうから。本降りになってしまえば、条件は同等だったはずだ。そうはならなかったのは、ただの偶然か…それとも、誰かの意思、か?
 ゲルハルトは頭上を見上げたまま、目を眇めた。まるで天の底に立っているような気がした。
 ふと、別れ際のやりとりが脳裡によみがえる。
「今夜はどうするんだ?」
 何気なく訊いたゲルハルトに、ミカは、自明の理のようにさらっと答えたのだった。
「これから? そうだな、いつも通りチームのミーティングに出て、多分少し一緒に飲んだりなんかして、それからミハエルにお祝いを言いに行くよ」
「……本気か?」
「うん。何で?」
 まじまじと見つめられたミカは、きょとんとしていた。本気で何が何だか判っていないときの顔だ。対するゲルハルトの表情は、呆然、というのに近かっただろう。
「……最終戦だと勘違いしちゃいねぇだろうな、まさか。コンストラクターズはまだ決まってないだろ」
「ちゃんと判ってるよ。…昔、最終戦じゃなかった鈴鹿で、さんざっぱら大騒ぎしていたのはどこのどちらさまでしたっけ?」
 これまた当然のようにまぜっかえされて――しかもにやにや笑いのおまけ付きだ――、ゲルハルトは今度こそ、絶句してしまったのだ。
 自分たちの時代とは何かが違う。それを、ゲルハルトは感じずにはいられない。確かに、ゲルハルトだっていろいろなパーティに顔を出してきた。でもそれは、自分がタイトル争いの渦中にいなかったからできたことだ。たった今敗れたばかりの、タイトルを掻っ攫っていった相手の祝福に、わざわざ出向くなど。
 ライバルは、好敵手ではなく仇敵としてのみ存在し得る。それが、彼の知るF1界の常識だったはずだ。
(ちぇ…っ。俺も、歳を取ったってことかよ…)
 あまり認めたくない事実に、ゲルハルトは軽く足下のコンクリートを蹴りつけた。それから、内心で呟いた。
(お前の時代はついに終わっちまったぜ、アイルトン)
 慌ただしく機材を移動する関係者の群れの中、立ち尽くしたまま、ぱらぱらと零れる雲の涙を、全身で受けとめる。額に当たる冷たい感触が、何ともいえず気持ちよくて、ゆっくり瞳を閉じた。
(終わっちまった。俺達の時代は……これからは、あいつらの時代なんだ。お前の影は、もう、消えちまうんだな)
 それは寂しいことではあるが、同時に必要なことなのだろう。めまぐるしく変遷していくこの世界で、もうとうに姿を消した人間が今まで影響力を保っていたことのほうが、尋常ではなかったのだ。それはそれだけ、彼が傑出していたという証拠でもあるのだろうけれど。
 勝ち逃げなんて許さない、そう言い切ったミカは、実に良い目をしていた――。ゲルハルトは、閉じた瞼をぎゅっときつく瞑った。
(……許すつもりなんか、俺だって、なかったさ……)
 一呼吸おいて、眼を開いた。小さく息を吐いた、次の瞬間には、ゲルハルトの表情はいつもの飄々としたものに戻っていた。
 再び歩き出す前に、いちどだけ背後を振り返る。栄光の至福に酔いしれるマラネロの住人たちは、次第に強くなる雨も何のその、ますます派手に騒いでいる。記念撮影なども始まっているらしい。
 頬に、自然な笑みが浮かんだ。
(さて。最終戦最終戦…)
 意識をさっと切り替えて、ゲルハルトはウィリアムズのガレージに入り、真っ直ぐ奥に設えられた棚のノートパソコンに向かう。
 ドライバーであった時には、レースが終わればしばらくはのんびりできたものだが、BMWのスポーテイングディレクターという責任ある立場になった今は、そう勝手なことはできなくなってしまった。今日のレースは、全体として悪くはなかったが、トップ2チームに大きく水を開けられている現実は無視できない。コンストラクターズ3位を確定する為にも、しなくてはならないことは多い。
 でも、その前に今夜は、きっと――自分の成績も忘れて――兄貴のところで大騒ぎして、挙句潰れてしまうに違いないエースドライバーを迎えに行く、という仕事が最優先かもしれないが。
(……てぇのを口実に、久し振りにハメ外してくるか…)
 可愛い女の子の1人や2人は、すぐ見つかるだろうし。
 ぼんやりと不謹慎なことを考えつつ、データの纏められた画面をスクロールしていくゲルハルトの胸に、じんわりとひとつの感慨が湧きあがった。何が起ころうとも、すべてを呑みこんでF1は続く。誰が泣こうが、喜ぼうが、いなくなろうが、お構いなしに。
 そう、自分たちが続けていくのだ。
 見てろよ、と誰にともなく思った。ちらりと上げた視線の先、ますます酷さを増した雨の中の向こうで、鮮やかな真紅の旗々が、波のようにゆらゆらと踊っていた。




 


2000年戴冠ネタ第2段。ミカファンのお友達の誕生日プレゼント。…が、これか、自分…(笑)
ゲベさんは、どう思ったのかな、と思ったのでした。御大自ら選ばれた最後のフェラーリドライバーとして、そしてセナの親友として、自分がついにできなかったこと2つ(フェラーリのタイトルと、セナと肩を並べるということ)を両方ともにしてのけた、自分も力を認めている相手に対して、どんなことを思うのかなと。想像にすぎませんが、きっと素直には喜べないんじゃないかという気がしました。プレスリリースではおめでとうと言っていましたが、祝福するということと自分が喜ぶということは、似て非なるものだというのは、私自身が感じたことです。素直に祝福しつつ、でも、寂しい。どこか残念に思ったり、悔しかったり、妙な対抗意識を燃やしてみたり。
題名は、単純に読めば『足音・足跡』ですが、奥の意味は、是非英和辞典をチェックして頂ければ、と思います。…フェラーリ、というか、F1というスポーツは、'tread in one's steps'だと思うんですよね。





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