チェッカーを受ける瞬間に、横目でピットウォールを確認した。自分のチームの、ではなく、いちばん手前のプラットフォームを。
飛びはね、拳を突きあげているいくつもの赤い人影が、見えた。
(そうか。勝ったのか…)
ヘルメットの下の口もとが、自然に緩んだ。
スタンドいっぱいに真紅の旗が翻る。昨年の決勝後には、見られなかった光景だ。
きれいだな、と他人事のように思った。実際、他人事だった。ついでのように見まわしたが、濃緑色のそれは、影もかたちも見あたらなかった。
逆バンクに差しかかったあたりで、前をゆっくり進む赤いマシンの背を捉えた。ダンロップで追いつく。がくんとペースを落として、隣に並んだ。
左に顔を向け、バイザーを跳ねあげる。ミハエルもまた、こっちを向いて応えた。泣いている。直感がそう悟った。
右手を軽く上げ、アクセルを踏み込むと、エディは再びスピードを上げた。
Independence Day
好奇の視線をきれいさっぱり無視して、計量を済ませたパルクフェルメに留まる。次々にカラフルなマシンたちが帰還してくるが、目当てのカラーリングは、なかなか姿を見せない。
(いつまでのんびりしていやがるんだ、あのバカは)
口中で悪態を吐きざま、エディはちらっと、まだ人影のない表彰台を振り仰いだ。
昨年、落胆と諦めと、それから奇妙な開放感とを味わった場所。今年は縁も所縁もない、その高み。そこに上りたくないと言ったら、嘘になる。忘れ去るには、エディは勝利の味を知りすぎていた。
(1年前はタイトル争い、今は、得意の鈴鹿でデビュー初のノーポイント、か…)
傍から見りゃ、さぞかし無様で滑稽な有様だろう。くくっと喉の奥で笑った。それから、誰にも判らない程度に、目を眇めた。
表彰台のてっぺんで呷るシャンパンの味は、格別だ。どんなに金を積んでも、その旨さは手に入らない。もういちど味わいたくないかと、問われれば、エディは迷いなくイエスと答える。
だが。
ラインは、はっきりしていた。次にあそこに立つ時は、自力でそいつをもぎとった時。飼い馴らされてお情けで恵んでもらうような勝利は、もう、要らない。
今期、エディと立場を入れ替えたルーベンスは、初優勝こそしたものの、タイトル争いからは早々に離脱した。させられたのだ。ミハエルがいるところでは、誰も、彼を差し置いて勝つことなどできやしない、それが今のフェラーリだ。その証拠に、ルーベンスが優勝したホッケンハイムは、エースが1周目でリタイヤを喫したグランプリだった。去年、エディ自身が獲ったレースだって、マレーシア以外は全部、ミハエルがいなかったからこそできたことである。
確かに、完走がやっとの現状は、去年のポジションを考えれば歯噛みしたくなるほど焦れったいには違いない。けれど、エディが今までになく積極的に仕事に勤しんでいるのもまた、紛うことなき事実だった。
ここには、自分の好きなように走る自由がある。次はどんなレースをしてやろうか。そのためには、気難し屋のお嬢ちゃん――うちのマシンだ――を、どんなふうに教育してやればいいだろうか?
2週間のインターバルをこんなにも楽しみに過ごした記憶は、いったいいつまで遡るだろう。肝心なものすべてをこの両手に掴んでいる、しっかりとした手応え。
今までだって諦めるつもりは毛頭なかったし、諦めた記憶もなかった。でも突然チャンスが降って湧いた時に、嫌というほど自覚させられた。諦めていないつもりで、どこか心の隅で妥協し、かつ納得していた自分を。
(移籍したのは、尻尾を巻いて退き下がったからじゃない――)
むしろ、その逆だ。眼前で揺れる真紅の波を、逸らさない眸でエディは受けとめる。決して負けたくなかったからこそ……ミハエルに本気で挑み、叩き潰してやろうと思ったからこそ、エディはフェラーリを出たのだ。
だから、部外者に何を言われたところで、エディは痛くも痒くもなかった。傍目にどう映ろうが、少なくとも本人は、自分の決断をちっとも後悔していないのだ。それを強がりだというのなら、雑誌にそう書けばいい。
(ただ、俺は…)
エディは、皮肉げに唇を歪めた。
俺はもう、俺以外に自分の未来の設計者がいるなんて状況は、たくさんなんだよ―――。
左の方でひときわ歓声が高くなった。
やっと帰ってきやがったか。エディはゆらりと寄りかかっていた壁から身を起こす。ゆっくり滑りこんでくるあざやかなスカーレットのマシンを、挑戦的に睨み据えた。
(跳ね馬の復活ってのは、そもそもお前の目標であって、俺のじゃなかったんだ)
エディはそれを助けるためだけに求められた。エディもそのつもりで応じた。いつのまにやら、すっかり勘違いしてしまっていたらしいけれど。
動きを止めたカーナンバー3に向かって、エディは静かに歩み寄る。スタンドの騒ぎが大きくなるが、気にしない。トッドが、コクピットで放心したままのミハエルを抱き締めている。その頭を、ぽん、と叩いて祝福する。
それから、微妙に懐かしい朱のマシンの背に片手を置いて、バイザーの中を覗き込んだ。
「やったな」
かける言葉はたったひとこと。ミハエルはこくん、と小さく頷いたように見えた。
こちらも頷きかえし、身を起こすと、エディはかつての仲間たち――柵いっぱいに身を乗り出しているフェラーリのスタッフたちにも、親指を上げて笑いかける。
(そうだ、やっと終わったんだ…)
そこではじめて、実感が湧いた。
5年前、自らに課した目標を、今日ミハエルは達成した。それによってエディは、ようやく、呪縛から完全に解放されたのだ。自由を取り戻した今、エディは心から、昨年までのチームメイトを、4年間彼の上に君臨しつづけた巨大な影響力を、認め、称えることができる。
長かった闘いの日々は、この日、ひとつの終わりを迎えた。
(だから、もう、いいよな。次は、俺の番だ―― そうだろ?)
ひらひらっとスタンドに軽く手を振って、それで用は済んだとばかり、エディはくるっと踵を返した。トータルでものの5秒ほど。待っていた時間の長さに比して、あまりにも淡白なやりとりだった。
後も見ずにその場を去る、足取りは素っ気ない。彼はもはや、自分の前しか見ていなかった。
ビッグキャットがフロントランナーになるまでには、少なく見積もっても5年、もしかしたら7年。そう口にしたのはエディ自身で、その言葉の意味するところは明らかだ。自分が再びタイトル争いに絡む可能性は、限りなく低い。
けれど、物事を表面だけ飾り立てても、得られるものは何ひとつないことを、エディは知っていた。現実的に考えて出た答えは、誰かがどこかで指摘しなければならない。
(でもな、だからって、初めっから7年かけるつもりでとりかかるわけじゃねぇんだぜ)
叶わぬ夢は、見るだけ無駄だ。算盤を弾いたのは自分で、元の採れない投資はエディの主義じゃない。推定どおりの年数がかかるか、もっと伸びるか、あるいは短くできるか。結果はいずれ自分次第。それでこそ、やりがいがあるってもんじゃないか?
ミハエルにできたことが、自分にできないわけがない、そんなふうに思った。そして、それができるのは、ミハエルのやりくちを間近でつぶさに見てきた自分以外にはない、とも。
(せいぜい腹括って待ってろよ…)
遠ざかる歓声を背中で聞くエディの双眸に、勝気な光が閃いて、消えた。