☆ 姉 弟 愛 ☆





「その歳になって盲腸で入院? な…っさけないわねぇぇ……」
 病院のベッドに半身を起こした弟を、腕組みしつつ見下ろして、ソニアはしみじみと言った。
「……他に何か言うことはねぇのかよ、他に…」
 膝の上に広げて読んでいた新聞の株式欄に思わず沈没しかけながら、エディは巨大な溜息をつく。血を分けた弟が、原因不明の腹痛でサーキットから緊急入院したというのに、病室に入ってきての開口一番がこれだ。突っ伏したまま、恨めしげに視線だけ上げて、彼は抗議を試みた。
「全っ然、心配してねぇだろ姉貴…」
「するわけないでしょあんたみたいな愚弟の心配なんて。おおかた、日頃の品行の報いが訪れたってところよね。良かったじゃないの、手術しなくて済んでさ。大事なカラダに傷が残っちゃ困るものねーぇ。……ま、入院ったってどうせ24時間なんだし、せいぜい大人しくしてなさい。くれぐれもナースに手ェ出すんじゃないわよ」
 鼻先にぴしっと指を突きつけると、ソニアはくるりと踵を返し、さっさと部屋を出て行こうとする。在室時間にして約1分。制限時間内で言いたいことを全部言わせたら、この姉に敵う者は世界中探してもいないんじゃなかろうか。
 呆然と見送りかけて、エディははっと我に返った。
「ちょ、ちょっと待った!」
「…何よ、何か文句でもあんの?」
 ……その喧嘩腰も何とかならないものだろうか、と思う…。
いくぶん萎えて、それでもエディは気になったことはしっかり訊ねた。
「お前、何の為に来たんだよ。それに、オヤジとおふくろは…?」
「……あんたまさか父さんと母さんが見舞いに来てくれるかもなんて期待してるわけ?」
 一瞬の沈黙ののち、表情の消えたソニアの口から抑揚のない科白が紡がれる。う…っとエディが身構えるのと、腰に手を当てたソニアが口撃の口火を切るのとが同時だった。
「莫っ迦じゃないの、34歳の息子のたかだか盲腸騒ぎで、わざわざ北アイルランドからロンドンまで出てくるわけないでしょ。どんだけ離れてると思ってんのよ。ついでにかかる経費についても注意を喚起したいわね。あたしはたまたま用事でこっちにいたの、それで無視するのはいくら相手があんたでもさすがに可哀想かと思って、様子見に来てやっただけ。ああ、あと一応先生には『保護者です』って名乗っといたけど」
「誰が保護者だよ誰が…。どうせ、これ幸いと笑いに来たんだろーが」
「あらよく判ってるじゃない。まぁ何言われてもしょうがないわよね、あたしが傍にいなきゃ何にもできないって自分で証明しちゃったんだから」
「それとこれとは関係ねえだろ、じゃぁ何か、お前がいたら俺の盲腸予防できたとでも言うのかよ」
「そこでムキになるあたりがまだまだ未熟よねー…」
「…………」
 憮然としてエディは勝負を諦めた。がさごそとわざとらしく音を立てて新聞を構え直し、中断された株価のチェックを再開する。そもそもが、この姉に口で勝てるわけがないのだ…。
 そんな弟の態度を殊更に莫迦にしたように見やり、ソニアはつけ加えた。
「都合が悪くなるとそうやって逃げる癖も健在ってわけね。ったくガキなんだから」
 エディは少なからずむっとするが、ここで反論しては更なる負けを呼び込むだけである。必至で新聞に没頭しているフリを装った。その様子にひとつ小さな溜息をつき、ソニアは黙ってベッドに背を向けると、さして広くもない部屋を横切ってドアへ向かった。
「……別にあんたがどこで何してたっていいけどさ。父さんと母さんにはあんま心配かけんじゃないわよ…」
 部屋を出て行きしなに、ソニアはぽつりとそう言った。感情の欠落した声だった。エディがちらりと視線を送った時にはもう、小さな音を立ててドアが閉められたあとだった。
「…………」
 独特の静けさが戻ってくる。穏やかな孤独を痛いほど感じて、エディはそのまましばらく、無味乾燥な病室のドアを無表情に眺めた。ゆっくりと1、2回瞬きをして、目を閉じる。
 それから、サンキュ、と声には出さずに呟いた。



 後ろ手に閉めたドアに、ソニアはそのまま凭れかかると、深々と息を吐いた。
 医師の診断では緊急手術の必要はないということだったが、結局、痛みの原因が何かはまだはっきりしていないのだ。盲腸ではない、とすれば、いったい何なのか…?
「…心配?」
 かけられた声の方角に首だけを向ける。少し離れた窓際で、娘のゾーイを抱いたマリアが微笑していた。
「んー…まぁね」
 それがちっともからかいの色を含んでいなかったから、ソニアの口元にも自然に微苦笑が浮かぶ。彼女の落ち着いた雰囲気は、何となく周囲の人を安心させる効果があるように思う。
「心配してないって言ったら嘘になるわね」
 去年までは同じチームで仕事をしていたから、多分誰よりも近くにいて、誰よりもそのコンディションを把握していた。F1にステップアップしてからというもの、エディが家族と一緒に過ごせる時間は年々減ってきていたが、こと自分たち姉弟間においては、それは除外できた問題だったのだ。……そう、去年までは。
「だけど、傍にいたってできることなんて限られてるのよね…」
 マリアは判っているというようににっこり笑うと、ソニアの方へ近づきながら、
「ご両親には連絡しておいたわ」
 エディと別れた後もマリアとアーバイン一家の絆は結構強力で、彼女はエディと別れたあともちょくちょく北アイルランドの家に顔を出している。娘のことも勿論あるが、いつだったか、まるで本当の家族のようで一緒にいると安心する、と言っていたのを、ソニアは聞いたことがあった。彼女の両親はずっとまえに亡くなっているのだ。
 今回もゾーイを連れてケントのソニアの家に遊びに来ていた矢先の入院騒ぎであった。
 そのゾーイはといえば、長時間のドライブですっかり疲れてしまったらしく、母親の肩にことりと頭を預け、すーすー寝息を立てている。
「ありがとう。…で、どうする?会ってく?」
 姪っ子の寝顔を覗きこみながら、ソニアはくい、と親指で背後のドアを指した。マリアは小首を傾げ、しばし思案してから首を振る。
「そうね…やめとこっかな。彼、今は会いたがらないと思うから」
「うん、あたしもそう思う。変なところでかっこつけたがりだから、あいつ」
「甘えん坊のくせにね」
 ふたりは顔を見合わせて笑った。通りすがりの看護婦にこほんと咳払いをされて、慌てて声を潜める。それから、連れ立って長い廊下を出口へと歩き出した。
「…多分、彼、ちゃんと解ってるわよ」
 何かのついでのようにマリアが言ったのは、駐車場で車に乗り込んだ直後だった。ソニアは黙って助手席へ目をやる。
 エディの入院を知らせる電話を受けてから、病院に駆けつけて医師の診断を聞くまで、ずっと一緒だったのだ。できるだけ隠してはいたつもりだが、自分の慌てぶりなど、聡い彼女にはお見通しだっただろう。
 そう、ソニアはたまたまロンドンにいたのでも何でもなく、弟を心配してわざわざ見舞いに来たのだった。
「だと、いいけどね」
 ぶっきらぼうな返答に、マリアはくすくすと笑う。
「そんなこと言って。本当は判ってるんでしょ」
「…………」
「正直、時々羨ましくなるわね――すっかり理解し合っちゃってて」
「…じゃ、そういうことにしておくわ」
 軽く肩を竦めると、ソニアは愛車のエンジンをかけた。茶目っ気たっぷりのマリアの言葉には、かすかに、けれど確かに憧れめいた響きが混じっていたから。
 アクセルを踏み込みつつ何気なく見上げたロンドンの空は、高く澄んで青かった。




 


エディ入院、の顛末を聞いて、appendisitis という単語を辞書でチェックした途端に降ってきたお話でござい…。というか、盲腸って知って冒頭のやりとりがぱっと頭に浮かびました。(苦笑) この年(2000年)の4月に発売されたばかりのエディの自伝をのんびり読んでいて、アーバイン姉弟とマリアさんの関係に凄いツボってたんです。素直じゃないのはお互い様で、結局は末っ子気質な甘えん坊のエドマンドくん。そんな雰囲気が出てれば成功。





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